教員の「残業代」を上げるんだそうだ。でも、残業が前提の政策で初等教育が変わるとも思えないのだが。

新聞によれば、公立教員の残業見合い分ともいえる「教職調整額」を、今は給料の4%なんだそうだけど、30年度に10%まで上げる案がまとまったとのこと。

 これって、政府も突っ込みどころ満載は承知で、とにかく対症療法でもなんでも、なんとかしないと教員の成り手がいなくなる、ってことなんだとは思うけど、こんなことしても教員の成り手は減る一方だろうと思えてならない。

 心を病んで休職する教員が7000人を超えたとか、3年連続で増加したとかいう報道もあったくらい、根本的に教員という職業そのものの在り様が疲弊しているんじゃないだろうか。

 単に長時間労働の問題だけじゃなくて、明らかにカスハラ的な保護者からのクレームやら、英語だITだと対応すべき教育スキルの広範さとか、今どきの社会の目が要求する生徒対応の難しさやら、私は教育現場を知らないから単なる想像に過ぎないのだけれど、一昔前の教員とは明らかにその負荷の程度が違っているように思えてならない。

だからそのためにやるべきことは給料の増額ではないと思う。政府は方向を間違えていないか。

 それじゃあ何をすべきなのか、素人考えで言いたいことを言わしてもらえば、一つは教育や教師の聖性とでもいうべき観念を社会全体で考え直す必要があると思っている。

 例えば最近は学校の部活をやめて地域に任せる方策が市民権を得ている。部活は旧来「青少年の人格陶冶」の重要な活動として学校教育の要素だったと思うが、それを、言ってみれば「もう無理」という理由であっさり手放した訳で、社会も「まあそうだよな、色々問題はありそうだけど」と一定の理解を示している。

としてみれば、まずやるべきは「これは教育上重要」と思われているけれど「ホントにそうか?」と一度疑ってみるべきじゃないか。

 思いつくままに挙げてみるが、まず「学校行事の数々」。極論だが、卒業式は意味もあろうが公立の小中学校の入学は自然にできるんだから本当に必要か、文化祭、運動会、遠足、修学旅行などなど、コロナの時は全部飛んだぞ。

 二つ目。「生徒の成績等の情報管理」。テスト問題の作成は教員がすべきだろうが、その実施や選択肢の機械的な採点やその記録、あるいは一覧化等のデータ整理等々は教員がやらねばならないのか。進んで内申書とか通知表の数字部分等々、IT化どころかAI化されつつある現代で教員がやらなければならない事はどこまでなのか。

 三つ目。保護者と教員の面談や保護者会。これも狭義の教育上必要なもの、クレームに近い物、その他(どんなものがあるか良く知らないが)等を峻別して、それぞれ誰が初段の対応をするとか、どこで会うとか、どの程度時間を割くとか、対応しないとか、きちんと行政上の方針として毅然と対応、管理すべきだろう。

 その他、事務的な仕事は教育を狭義に捉えるか広義に捉えるかで、雑務にもなるし教育の一環にもなるという事項は多々あるのではないか。そのうえで直接の教育以外の事務は事務員が行うことを、要は家庭や生徒が許容すれば教員の仕事から外せるはずだ。

 大学の話ではあるが、日本では入試は「教員がやらねばならない神聖、厳正なもの」という意識が一般的にあるようだ。自分が教える学生は自分が選抜する義務があり、また権利がある、という意識らしい。

 でもアメリカでは、選抜は専門部署が大学の方針に従って実施するのが一般的で、教員はその結果として集められた学生を一人前に育てるのが仕事と考えている。明確な分業制だ。メジャーリーグも選手の獲得はフロントの仕事で、与えられた選手を使って勝つのが監督の仕事、と明確だ。

 そんな例からも「これは誰がやるべし」などというのは相対的なことが分かるし、聖性か合理性かなどと、尺度が替われば見えてくるものも違って来ると思う。教員の給料を上げるより、その分で事務員を増やして教員の仕事を減らすという政策だってあるだろう。その方が雇用政策としても有効だ。

 そんなところからしっかり考え始めないと、日本の初等教育は終わってしまうぞ、と一人危惧している。