国立大学の値上げ、ドジャースの開幕戦チケット、日本の自由主義経済の夜明けだ!、って大袈裟だけど。

国立大学を含む大学が授業料を値上げした、あるいはするっていう日経の記事。一方でドジャースの日本での開幕戦チケットの予約もそろそろ始まるらしい。

 大学の値上げは東大でもせいぜい11万円くらいの話だから、絶対的な金額で言えば最近の諸物価高騰に比しても、まあ大したことではない気もする。

 ドジャースのチケットも、10人の特別なスイート席が180円万弱、一人当たりでは18万円弱ってことだし、バックネット裏でも6万円くらいとのことだから、この間のワールドシリーズが最安で12万円、ネット裏なんぞは500万円とか600万円とか、バッカじゃないかという金額だったことに比べればどうってことはない、といえばその通り。

ただこの事が示す意味は、自分としては果てしなく大きいと感じる次第。

 例えば大学の授業料は国立といえども2割の値幅は自由裁量があったのに、長い間ずっと”何ものか”に縛られていた。

 言い方は悪いが、世間の評価が高かろうが低かろうが、教員や設備が充実していようがいまいが、就職に強かろうが弱かろうが、駅近だろうがど田舎だろうが、全国一律で年間54万円弱だったのが、ここへ来て少なくとも自信のあるところは値上げに踏み切ったのだから、要は初めて国立大学間で「価格差」が付くという事。

 野球のチケットにしても日本では「いくら何でも相場ってもんがあるよね」という事なんだと思うが、アメリカ的には「今のドジャースカブスにいくらの価値があるか、いくらまで客は払うか」をきちんと分析評価して来る訳で、何となくの相場感なんて端から頭にはなさそうだ。

 日本でこの類の考え方が普通になっているのは、多分ホテルが先端を行ってるんじゃなかろうか。といっても結局は外資系ホテルが引っ張って日本のホテルも追従した形だろうけど、それでも一泊15万円程度は今どき驚かない。

 それでも、世界レベルでの富裕層に対応できるホテルが日本にはまだまだ足りなくて、その層の取り込みが十分には出来ていないという。

 本物のセレブは専属のコンシェルジェまで付いて、一泊最低でも30万円くらいはしないと選択の対象にもならないのだそうだ。

 そういう感覚と、銀座辺りの”中身はともかく高い店でなくては困る”といった、接待社用貴族が高額客の代表である日本とでは本質的に違うようで、日本では相場を離れて価値に値付けする習慣は、まず育ちようもなかったのだと思う。

 その意味で日本は民主主義国ではあっても経済体制は十分に社会主義的な国であったのだし、超高額所得者もいない、分配もうまく機能して格差が極めて小さい社会構造が保たれてきた。

 それならそれで、私としては、国立大学だけは大昔のように、学費が年額一桁万円と学生のアルバイト代で賄えるくらいのまま、お国のための研究機関、人材育成機関として割り切ってしまえば良かったのだろうが、そんなことは言っても後の祭り。

 今まさに我慢の限界を迎えて、国立大学は値上げしないと世界に伍していけませんとなったのだから、日本が完全に自由経済に転換しようとしているのだから、国立大学といえども国家が余計な介入はしないで、市場に任せてくれたら良いんじゃないだろうか。

 そうすれば、東大や京大の価値は学費300万でもおかしくないだろうし、個人的にはそうなるべきだと思う。国がなすべきは、学費が払えないから進学できないといった家庭の学生をいかに支援するかだけであって、大学を統制すべきではない。

 同じことがスポーツでも芸術でもエンタメでも、あらゆるところで「市場が決める」原則が働く事になるし、それが医療や福祉などにも影響を与えるだろうが、それでも各々が自分のレベルに合った選択ができる限りは健全な社会として機能すると思うんだが、どうだろうか。

 その時に、貧乏人もちゃんと生きていけるように、そこだけは国家がきちんとセーフティーネットを整えてカバーしてくれれば良いのではないだろうか。

 

 

 

まとめてモノ申したいー3。兵庫県知事のPR会社の社長、ALS嘱託殺人。

一つ目。昨日今日のワイドショー独り占めのPR会社の社長の件。ちょっと自己顕示欲が強すぎたかな?

 選挙の応援で会社が選挙事務所にお手伝いの人を送り込むことは、今時は知らないが、昔はよくあった話。私自身もゼネコンの方からいろいろな話を聞いたし、自分自身も実際に身近に経験したこともある。

 そういう時、送り込まれる人は期間中スッパリと会社を休ませる。正式に届を出して休職扱いにする。当然その間は全くの無給。でないと運動員買収とか言う行為を、応援してくれる会社を迂回して行ったと認定されて、候補者は一発アウトを喰らうから。無給の間の補償はどうするのか。そこはまあゴニョゴニョの世界である。

 そんなのは、少なからず政治家に係わりを持つ会社にとって、当時は常識の内だったと思うが、今回のPR会社の社長さん、何を思ったか業務の内容をこれでもかと書き連ねて、選挙全般を自分が仕切った的なことを公言して、しかも「信頼のおけるチームで取り組んだ」と、会社ぐるみで対応したような事まで公言しちゃった。

 ネット等で見た情報では、社員らしき人が辻立ち演説の現場で働いている映像がいっぱい残っているらしいから、もしこれが社長のところの社員で、その間の給料もしっかり払われていたりしたら、どんなことになるのやら。おお怖っ。

 県知事の選挙陣営の方もこれを見たときは腰を抜かすほど魂消たろうし、社長さんはどれほどひどく罵倒されたろうかとか、当分は消えてろと言われたのかなとか、勝手な想像が膨らむところ。

 まあ迂闊でしたな。心情的には同情もいたしますが、天網恢恢疎にして漏らさず。

 お天道様は見ているぞ。

二つ目は、嘱託殺人のこと。

 これはある医師がALS患者に頼まれて自死を手伝った件の控訴審判決が出たという事なので、記事としては一審の時に比べれば格段に小さいから、気が付かない人も多かったと思う。

 判決は一審を支持して懲役18年の実刑判決。特段このことにモノ申すつもりは無いのだが、そもそも「安楽死」についての議論が、このような事件を通じても全く聞こえてこない事に、いささか疑問を持っている。

 ちょうど昨日の産経新聞ONLINEで、オランダの安楽死のことを扱っていたのだが、かの国ではそれが認められているのだそうだ。ただし、6項目に及ぶ条件がすべて満たされた場合に限る。

 うろ覚えだが、条件の一つが「到底耐え難い痛みがあって、改善の見込みがなく、それしか手段がないと判断される」という趣旨。それと「(安楽死の)専門の医師が判断した場合に限る事」など、所与の手続きも含めて厳密に規定されているとのこと。

 今回の日本のケースで二審の判断では「憲法が保障する自己決定権は個人の生存を前提としており、死ぬために人に手伝ってもらう権利は導き出せない。」ということだそうだ。

 だが、権利といった時、それらは自然権に基づいた天賦のものと考えられる物も多いが、突き詰めれば自然とか天賦などの言葉でさえ幻想であって、結局は一つの社会の伝統とか慣習とかに沿って、その社会が決めて、その構成員が基本的に了解し価値を共有しているというものであろうから、権利の中身はいくらでも変えられるはずである。

 だから、現行の法体系の中で許されないからと言って、そこで思考を止めてはいけないし、「安楽死」は本当に不要なのか、認めてはいけないのか、などともっと議論すべきじゃないだろうか。

 例えば自分が高齢になって、なんら生きる意味を見出せなくなったと自分が考えた時に、それじゃそろそろおいとましようか、という自由や権利が保障されているといないでは、残された時間への向き合い方も、引いては幸福度も変わると思っているのだが。

 いろんな考えの人がいるだろうから、ぜひとも議論が必要なはずなんだが、どうだろうか。

 

北の富士82歳、谷川俊太郎92歳、世界は違えど”一般人”をとても楽しませてくれた功労者。謹んで合掌。

北の富士といえば「かばい手」。随分論争めいた騒ぎになった記憶があるが、リアルタイムでTV観戦していたことを懐かしく思い出す。

 片や横綱北の富士、此方人気絶頂関脇貴乃花、といっても当然初代の方。取り組みの経過はすっかり忘れているが、最後貴乃花が捨て身の投げというかうっちゃりというか、ともかく足を掛けられて後ろに反り返って、限界越えで背中から倒れかけた時に、貴乃花の腹にすっかり乗っかった体の北の富士が、相手が危険と思ったのか自分が危険と思ったのか、とにかく明確に先に手をついた。

 行事軍配は貴乃花。しかしここから物言いがついて土俵上で協議することしばし。結果は「かばい手」で行司差し違え、北の富士の勝利と相成った。

 子供ながらとっさに口に出たのが「かばい手ってなんだそれ?」。横綱だから贔屓されたんじゃないかって、今にして思えば随分貴乃花寄りの見方だと思うが、正直全然納得いかない気持ちだったことを鮮明に思い出す。

 そんなに相撲ファンでもなかったから、それ以外に現役時代の特段の記憶も無いが、同時代の横綱玉の海が若くして盲腸が原因で亡くなったことや、北の富士玉の海の戦績が伯仲していたこと(”注射”が普通だった時代を感じさせる戦績とも思えるが)などが思い出されるが、洒脱な言動も含めてお茶の間を楽しませ、様々な話題を提供してくれたことは間違いない。

 引退してからは親方として千代の富士北勝海と二人も横綱を育て、協会も引退後には名解説者として活躍するなど、さらに大きな功績を残したと思う。

 特に解説者時代に、協会から自由の身ゆえだろうが、白鳳のことを見苦しいだのあるまじきだのと、さんざんにこき下ろした舌鋒は尊敬に値すると思うし、私もそのおかげで溜飲を下げたものだ。

 82歳ということだが、とかく力士は先の玉の海しかり、貴乃花北の湖、輪島、千代の富士など、多くは短命だったり、まだ早いと惜しまれて亡くなったケースが多い中、まずまず天寿を全うしたと言えるのではないだろうか。

さて、谷川俊太郎のこと。この人は詩人であり巨人とまで言われた方だが、私にはおよそ詩人らしからぬ人として、ある種不思議な方という印象が強い。

 まず風貌が、私的には詩人的でない。大変失礼ながら。詩人ってどこか腺病質でいつも胃薬でも飲んでいるような、眉間にしわが寄っているような勝手な思い込みがあって、その点、谷川俊太郎という名前からして明るさを感じるし、写真を見てもTVなんかを見ても、芸術家の空気感は感じるが、演劇とか舞踏とか音楽とか、しかも結構コンテンポラリーというか前衛的なそっち系のイメージがして、詩の朗読なんかしていると不思議な感じがしてしょうがなかった。

 とは言え、私の中の詩人は教科書に登場する、朔太郎、光太郎、中也、三好達治辺りで、どう若くても自分の生まれる前の人達。だからそもそも現代の詩人なる方を私は知らないのだが。

 この方はとにかく活躍の幅が広くて、絵本だアニメだ言葉遊びだと、いたるところで「谷川俊太郎」の名前には馴染んできたし、今回知ったことだが、俵万智中島みゆきといった方々が大きな影響を受けているのだそうで、現代においてあらゆる世代の人々に最も大きな影響を与えた詩人であることは疑いのないところなのだろう。

 私が大昔から名前を知っていたのだから、ちょっと考えれば分かりそうなものだが92歳とは少々驚いた。こちらも天寿を全うしたと言って良いのだろう。文壇というのかその世界における位置づけや影響などは知らないが、まさに巨星落つの感が強い。

 

 改めて、謹んで合掌。

 

 

在職老齢年金、言い換えれば「歳とって結構稼いでいるのに年金ももらえる制度」は納得いかない、ってことで一言

在職老齢年金の支給要件を緩和する方向だそうだ。もっと稼いでも年金は減らしませんって、人手不足、働き控え是正策とは言うけれど、ホントはどこ見てんだ?

 現状では年金と賃金との合計が50万円を超えると年金が減額ないしはゼロになる仕組みだそうだ。「年金」というのは正確には厚生年金だけの事、基礎年金は含まれていない。

 これを私が知ってる人の、平均よりは少し上くらいらしい年金の実際でいうと、まず基礎年金が6万5千円くらい。厚生年金が14万円くらい。これで月額20万ちょい。さらに専業主婦だった奥さんの加給年金というのが4万円くらいもらえて、まあ二人分ではあるが24万円くらいが月額。

 さて、この人が働く場合、現状の仕組みでは50万円から厚生年金14万円を引いた、賃金36万円までは厚生年金は減額されないから、足し合わせると、50万円+6万円強+4万円くらい=ナント60万円!!!ほどの月収が可能だ。

 つまるところ、賃金36万・・・でも、なんだかんだで実際は月収60万である。でもこれを超える人が20%弱いるっていうから、それもおどろき。

 これで若い世代が文句言わなきゃウソだよね。俺よりよほどもらってる奴のためにナゼ高額の社保料を払わなきゃいけないんだ、と怒り心頭だと思うけどね。

 なのに、それでも働き手が足りないとか働き控えを減らすとか言ってアッパーを62万円や71万円くらいに上げてはどうかって議論をしているんだから、どうかしてるって思わないか。アッパー62万円なら、上の例では賃金48万円まで働いても厚生年金は満額もらえて、他も合計したら月収72万円だぞ。

 当然そのためには原資が必要だから、それは若い世代の高額所得者の保険料をあげるとか言っているから厚労省は二重にたちが悪い。

一方で言われている「103万円の壁が人手不足、働き控えを生じさせている」というレベルとは全く違う世界の話であることは、よくよく考えないといけない。

 そもそも65歳を超えた人がいないと困る、働き手が不足している分野ってどこなんだ、65歳を超えても働かないと生きていけない人ってどんな人なんだ、ってところから考えた方が良くないか。

 いわゆるホワイトカラー族で65歳以上の人材需要はあるか?たぶんないだろう。あったとしたら役員クラスとか特別のポジションだろうし、そういう人には企業が職責に応じた報酬を払うべきだ。何も国民が薄く広く賄うべき筋合いじゃない。

 では、職人技が必要とされる分野だろうか。その可能性はあると思う。ただそれも年金を込みで考えるんじゃなくて、本当に必要なら相応しい報酬を企業が責任をもって支払うべき筋合いのものだ。

 もう一つは、いわゆるパート、アルバイトの世界。年金も勘定に入れて考えれば払う方は低賃金で雇用できるし、働き手も賃金は少なくても暮らしの足しになる。そういう人は103万円の壁問題と重なる人たちだから、今ある「合計50万円/月」なんてそもそも遠い世界。

 103万円が今後いくらかに決まったら、その人たちについては、その金額に合わせて、例えば年収150万円(月収12万5千円)までは年金を減らさない、とかでカバーできる。そのうえで150万円以降は税と同じ考え方で、税率程度ずつ厚生年金も減らして、厚生年金の平均的な金額まで稼いだら、以降は厚生年金は0にするのも一案だろう。多分多くの人は税も年金も引かれずに済むんじゃないか。

 今議論の俎上にある、65歳を過ぎて30万も40万も、さらにそれ以上の給料をもらえる人なんてとても恵まれた人であって、そういう人は働く事が一種のステータスであり生きがいなんだから、厚生年金のいくばくか、あるいは全額20数万円くらいが無くなるからといって働き控えなんてまずしないし、仮にそれじゃ働けないっていったらとっとと辞めてもらって、代わりは若い世代からいくらでも補充できる人たちだと思うね。

 

ってことで、議論の筋が悪すぎるって昔からずっと思っている。

兵庫県知事の件、個人的にはショックを受けるほど理解を超えているんだが。

兵庫県知事選で前職の知事が当選した。若い世代がこぞって支持したそうだ。

 斎藤氏に投票した要因は政策を重視したという人が多くて、問題となった一連の行動や公益通報の取扱いなどについては1割程度の人しか、いわゆる争点として考えていなかったらしい。

 この事こそ、個人的にはちょっと待てえ、と叫びたいポイント。

 斎藤氏が最初に知事になった時、その政策や県政の改革姿勢、若さ、清新さといった点が支持されたのだろうし、実際に県政の改革などは一定の成果を上げていたようだ。

 がしかし、その職務の遂行において、知事として、組織のリーダーとしてあるまじき行いがあったということで、県民の一方の代表たる議会からパージされたのであって、今回彼について評価すべきは、一にかかってリーダーとしての適格性である。実際に数年間どうふるまって来たのかという一点である。

 言ってみれば、彼のみについては政策の良し悪しは全く関係がないし、県政の改革の実績なんかもおよそ関係はない。ひたすら、現職であった時の行いを県民として、有権者として許すのかという問題である。

 行いの中には、公益通報制度に関して理解がなかったのか、あえて無視したのか、いずれでも大問題だが、通報者のあぶり出しに懸命になり、公務員にあるまじき行為とまでののしり、責め立て、その挙句に一人ならず人が死んでいるのだ。

 そういうリーダーを再び自らのリーダーとして迎え入れたいとした人々の思いは、私には理解できない。

民主主義の終焉とか、そこまで言わずとも民主主義の変質とか危機とか、最近よく言われるが、少なくともSNS型民主主義とでもいう動きは確実に定着しつつあるんだろう。

 東京都知事選の石丸ショックなるもので認識が深まり、衆院選で国民民主の独り勝ち、そして今回の兵庫県知事選である。

 そこで重要なのは「自分に刺さるか」であり「多数の同調者」であろう。「本当の真実」はあまり重要ではないし、深い知識や理解なんかも、まあどうでも良い。

 彼の現職時代の行いも、その多くはSNS上で「あれはデマ」「彼はそんなことはしていない」ということになっていて、それによって「私は、僕は今まで間違っていた。彼はそんなことはしていないんだ。デマによってつぶされかけている」ということが「真実」になっている。

 どちらが真実か、神のみぞ知るとして百歩譲っても良いが、前に書いたように人が死んでいるのだ。それをどう説明するのか。

 ネット民の言う通りなら「謀略が成就しなかった。このうえは犯罪者になるよりは死を選ぶ」という事だったのかも知れない。

 だが普通に考えれば「正義の告発が、あろうことか公務員にあるまじき行いと知事から全国ネットのTVで非難された。このうえは死を以て真実を訴える。」という事だったのかも知れないではないか。

 SNSで触発された方々はその点をどう考えるのか。それとも考えたことはないのか。

もっと言えばあの前知事の周辺で人が死んでいる事さえ知らないのではないか。

 今回のケースでは斎藤氏の政策が「既得権益への挑戦、古いものの打破」のイメージにつながって、反対側から見れば斎藤氏は既得権益側からいじめられている、いじめられた人となり、それに一人で果敢に立ち向かう人という図式が出来上がったのだろう。その瞬間、一気に支持層が増大したのだろう。

 今回の選挙でもう一つ切実に思った事。それは「当選する目的を持たずに立候補することの是非」

 競馬法だって一着になる意思を持たずに出走することは禁じられている。いわんや公職選挙法である。当然法の趣旨としては当選する意思を持たずに立候補するなどは想定外であろう。が、ビックリするような人やことが最近頻発しているのだから、法改正が必要じゃないだろうか。

 

 結果責任は選挙民たる兵庫県民にある。その意味で私は全くの門外漢でしかないが、民主主義を信奉してきた者にとって、結構ショッキングな出来事ではある。

まとめてモノ申したいー2。103万円の壁、定員割れ大学。

まずは103万円の壁。今日の日経に竹中治堅という政策研究大学院大の先生がこの問題にも触れた論文を掲載しているんだが、なあるほどと納得した話。

 なので、モノ申したいのは178万円に対して。その論文を読むと178万円が改めてとてもおかしなモノに思える。

 現行の所得控除103万円というのは、基礎控除が48万円、給与所得控除が55万円と分解されるのだけれど、そのうち、基礎控除は最低限の生活を維持するために必要なお金には課税しないという、憲法25条の生存権の保証が租税法で形になったものなんだそうだ。そして給与所得控除がいわゆる必要経費の見合い分という性格。

 そうすると、先生曰く基礎控除として適切な額は生活保護費が参考になるんじゃないか、ということ。現状でそれは68歳の単身世帯がざっくり月額6.8~7.8万円とのこと。

 一方の必要経費はどうかと考えると、先生の考えはインフレ率で考えるのが適当ではとのこと。どこを起点にするかの問題はあるが、2018年の前回是正時からみれば1.1倍程度らしい。

 その考えで、基礎控除を月額7.5万円として年額90万円。給与所得控除が現行の1.1倍で61万円弱。合計でざっくり150万円って数字が出て来る。

 そう聞けば、性格の違うお金を一緒くたにして、最低賃金が1.73倍になったから178万円だという理屈はどんぶり勘定にしか思えない。しかも時間給じゃない人の方が大勢だし、そういう人の給料が1.73倍も上がっている訳もないのだから、ますますおかしな数字に見えて来る。

2つ目は今更ながらの定員割れの大学の話。

 これも今日の日経の話で、2050年には大学の総定員の3割は埋まりませんよ、という推計が記載されている。もう待ったなしだから対策をというので、文科省が必死になっているということなんだが、対策する、それも国がする必要は本当にあるの?

 大学は自治を旨として、国家権力の介入を嫌悪するのが普通のありようだろう。そんなところ?を国家が何故助けてやるんだろうか。

大学がつぶれたら誰が困るのか。潰れるような大学が潰れる限りにおいて。

 まず国は何の痛痒も無いだろう。強いて言えばそんな大学を認可した文科省が後ろ指さされる可能性があるくらい。財務省なんてむしろ喜ぶんじゃないか。

 学生が困るか?在学生は困る。これへの対応は必要だろう。だが新入生も含めて、そもそも大学全体の定員が余ると言っているんだから行き場がなくなる心配もない。

 大学の職員、教員は困る。でも会社が潰れそうだからといって国が個々の企業に対して対策を取ってくれるだろうか。

 唯一困るのが地方自治体かも知れない。大学は大体のケースで自治体の誘致が絡んでいる。企業誘致と並んで地方創生の中核、社会的インフラと思われているからだろう。補助金を突っ込んだり、土地を無償貸与したりしているケースも多い。

 だから文科省も大学に対して「まず県や市とよくご相談されて、文科省がやれることがあれば言ってください」くらいの姿勢が正しいのではないか。

 自治体でも東京、神奈川、大阪、京都みたいな、溢れるほど大学があるところはきっと何もしない。口にはしないだろうが、潰れるなら潰れてください、何も困りませんってところ。

 そうじゃない、年々体力が削がれているような自治体は、きっと我が事として必死に知恵を出すに違いない。あんな大学でも無くなればまた人口流出だ、公立化するか、あそことここを合併させるか、学部の種類を変えるか、県外生を呼び込むには、産学連携できないか、ああできないかこうできないか、などなど、衆知を結集するに違いない。

 挙句ダメなら、それはやはり潰れるしかないだろう。

 

 とっくの昔から知れたことを今になって尚文科省が無駄な対策を施す意味が、少なくとも私には理解できない。

 

 

陰謀論じゃないけど、玉木さん、ヤラレたなって感じ。

玉木さんの不倫問題。地元では結構以前からクサイ、アヤシイ、ってことだったみたい。何故この時期にと思えば、刺されたなって思えてしょうがない。

 自民党が、ってことではないけれど、でも自民党は1955年からほとんどずっと権力の座にあったから警察やら財界やら、その情報網はすさまじいと聞いたことがある。

 その昔、後藤田正晴という官房長官がいて、その前は警察庁長官までやった人なんだが、田中角栄の懐刀と言われ、嘘か誠か知らないが与党も野党も隔てなく、警察情報網によって国会議員のスキャンダル情報をあまねく押さえていたという噂だった。

 政敵をつぶすのに、その中心的な支援者の会社に突然国税の査察が入ったなんていう、もっともらしい話も聞いたことがあるし、重ねて嘘か誠か知らないのだけれど、権力とはさもありなんと納得させられてしまう。

 そういう伝統というか、情報網は多分今も生きていると思うし、必要に応じて使える引き出しはたくさん持っているんじゃないか。そんな目で今回の事を見てみれば「玉木、あの野郎いい気になりやがって」と、これは私の邪推だけれども、案外そんなことだったんじゃないかという気がしている。

 まあそれはそれとして、不倫だの乱倫?だのセクハラだの、そんな昔の事でもなく国会議員が結構辞職しているのに、玉木さんは党首さえも下りないってのは、何故それで済むんだろうかと、そこは素直に疑問。

もう一つ、これは相当うがった見方なんだけれど、ヤラレたんだろうな、と思うのが厚労省が突然言い出した「106万円の壁」

 「所得税控除枠の103万円を178万円に引き上げる」と国民民主党が言い張っている最中、厚労省が突然社会保険料の観点から106万円の壁を取っ払うと言い始めたのは、なんでこの時期なの、とちょっと不思議。

 でも遡って考えれば、もともと専業主婦の3号被保険者の問題も含めて、所得税と一緒に社保、年金も包括的に捉えて、いっそすべてを個人単位で考える方向も検討されていた訳であって、その点から言えば国民民主の103万円は、話をとても矮小化した、ある種人気取り施策ではある。

 しかも178万円に控除枠を広げたところで、報道によれば「103万円の壁」が問題となるパート・アルバイトさん等の7割の人は「年額」数万円レベルの手取りアップでしかない。一方働く人全てに係わる話である税収は7~8兆円も減る仕組みだそうだから、財務省や政府筋にとってはとても「ウン」とは言えない政策。

 で、ちょっと待て、検討すべきは税だけじゃないぞ社保もあるぞ、むしろそっちの方が大規模かつ喫緊の課題だぞ、という論理で103万円問題を先送りするか拡大幅を縮小するか、そんな作戦じゃないかと疑っている。

 大体、首班指名も済んでいない非常に政治的な段階で、手取りを増やす政策に手取りが減る政策をぶつけるような真似を、官僚の独断でできるはずがないのは間違いないだろう。

 多分、そんなこんなしながら政治資金の問題を各党の合意でサッサと片付けて、178万円問題も現在社保の支援手当が出ている140万円程度にして、これなら103万円の壁も広がるし、社保負担してもらっても手取りは減らないよね、とか言って手打ちとして、あとはバラマキで野党と合意して補正を通し、勢いで維新辺りを巻き込んで次年度予算を通して、春には自民党は倒閣運動で大政局。やがて国民民主は蚊帳の外、って作戦じゃないかしらと意地悪く思っている。

 

 それにしても、好事魔多しとはよく言ったもんだと、改めて痛感した出来事でありました。