国立大学を含む大学が授業料を値上げした、あるいはするっていう日経の記事。一方でドジャースの日本での開幕戦チケットの予約もそろそろ始まるらしい。
大学の値上げは東大でもせいぜい11万円くらいの話だから、絶対的な金額で言えば最近の諸物価高騰に比しても、まあ大したことではない気もする。
ドジャースのチケットも、10人の特別なスイート席が180円万弱、一人当たりでは18万円弱ってことだし、バックネット裏でも6万円くらいとのことだから、この間のワールドシリーズが最安で12万円、ネット裏なんぞは500万円とか600万円とか、バッカじゃないかという金額だったことに比べればどうってことはない、といえばその通り。
ただこの事が示す意味は、自分としては果てしなく大きいと感じる次第。
例えば大学の授業料は国立といえども2割の値幅は自由裁量があったのに、長い間ずっと”何ものか”に縛られていた。
言い方は悪いが、世間の評価が高かろうが低かろうが、教員や設備が充実していようがいまいが、就職に強かろうが弱かろうが、駅近だろうがど田舎だろうが、全国一律で年間54万円弱だったのが、ここへ来て少なくとも自信のあるところは値上げに踏み切ったのだから、要は初めて国立大学間で「価格差」が付くという事。
野球のチケットにしても日本では「いくら何でも相場ってもんがあるよね」という事なんだと思うが、アメリカ的には「今のドジャースとカブスにいくらの価値があるか、いくらまで客は払うか」をきちんと分析評価して来る訳で、何となくの相場感なんて端から頭にはなさそうだ。
日本でこの類の考え方が普通になっているのは、多分ホテルが先端を行ってるんじゃなかろうか。といっても結局は外資系ホテルが引っ張って日本のホテルも追従した形だろうけど、それでも一泊15万円程度は今どき驚かない。
それでも、世界レベルでの富裕層に対応できるホテルが日本にはまだまだ足りなくて、その層の取り込みが十分には出来ていないという。
本物のセレブは専属のコンシェルジェまで付いて、一泊最低でも30万円くらいはしないと選択の対象にもならないのだそうだ。
そういう感覚と、銀座辺りの”中身はともかく高い店でなくては困る”といった、接待社用貴族が高額客の代表である日本とでは本質的に違うようで、日本では相場を離れて価値に値付けする習慣は、まず育ちようもなかったのだと思う。
その意味で日本は民主主義国ではあっても経済体制は十分に社会主義的な国であったのだし、超高額所得者もいない、分配もうまく機能して格差が極めて小さい社会構造が保たれてきた。
それならそれで、私としては、国立大学だけは大昔のように、学費が年額一桁万円と学生のアルバイト代で賄えるくらいのまま、お国のための研究機関、人材育成機関として割り切ってしまえば良かったのだろうが、そんなことは言っても後の祭り。
今まさに我慢の限界を迎えて、国立大学は値上げしないと世界に伍していけませんとなったのだから、日本が完全に自由経済に転換しようとしているのだから、国立大学といえども国家が余計な介入はしないで、市場に任せてくれたら良いんじゃないだろうか。
そうすれば、東大や京大の価値は学費300万でもおかしくないだろうし、個人的にはそうなるべきだと思う。国がなすべきは、学費が払えないから進学できないといった家庭の学生をいかに支援するかだけであって、大学を統制すべきではない。
同じことがスポーツでも芸術でもエンタメでも、あらゆるところで「市場が決める」原則が働く事になるし、それが医療や福祉などにも影響を与えるだろうが、それでも各々が自分のレベルに合った選択ができる限りは健全な社会として機能すると思うんだが、どうだろうか。
その時に、貧乏人もちゃんと生きていけるように、そこだけは国家がきちんとセーフティーネットを整えてカバーしてくれれば良いのではないだろうか。