毎年この時期に出て来るのが「合計特殊出生率」。いよいよ1.15だそうだ。
昨日の日経一面で2024年に生まれた子供が70万人を切ったとのこと。この際70万にどれほどの意味があるか知らないが、合計特殊出生率が1.15はビックリ。
確か前年のそれは1.23だったように記憶しているから、1年でさらに6~7%も減ったことになる。さあ大変だというので別面でもさらに深堀の記事が載っていたんだけれど、今日になってあらためて、今度は社説の全面使って目一杯問題提起している。
曰く、「出生率1.15は変革怠る社会への警鐘だ」。
で、その「怠った変革」というのが、まず、将来にわたり安定的に働き収入を得られるかという不安による「未婚化・晩婚化」。続いて、長時間労働や非正規などの「雇用・労働慣行」。さらに育児は女性がやるものといった「性別の役割分担意識」。などなど課題が列挙されている。
が、これって本当か? 逆に言えば、これらが解決すれば女性が子供を産むようになるのか。その効果の見積もりはされているのか?
いつからか覚えていないが、上記のような課題への対策は相当な期間、あの手この手と打って来たんじゃなかろうか。その結果として毎年のように出生率がきっぱりと下がって来ている訳で、まあやり方が悪いとか質や量が足りないとかケチの付けようはあるが、同様に、原因はそこじゃないというエビデンスである可能性もある。
じゃあなんだと言うと、ちょっと身もふたもない話になるんだけれど、私はある種の文明論に行きつくと思うんだが。
いきなり胡散臭く思われたかもしれないが、元になる考え方は真っ当で、「ユバル・ノア・ハラリ」という歴史学者の「ホモ・デウス」という、少し以前に評判になった書籍に拠っている。
そこで言われているのに、人類は今、「人間至上主義」という”教義”、ある意味で”宗教”に生きていて、人間の自由意志こそが最高の権威であると信じているし、近代にいたって自由主義の国々では「個人主義」、「人権」、「民主主義」、「自由市場」というパッケージを絶対的に信奉している、というのがある。
まあそこまで哲学っぽく考えずとも、例えばハラスメントでは「された側がそう感じればそれはハラスメントだ」というのが定説だろうが、「私」がどう思うかが絶対的な価値であり、何人も犯すべからざるものなのだ。
「聖書(コーラン)が、汝これをすべからず」と言ってるからダメ、などとは考えない。決めるのは自分であって、神と言えどもその任にあらず、というのが現代なのだ。
さて、そう考えると、新聞で言われたような課題の全てがどう解決されようと、私は(まだ)結婚したくない、私は(まだ)子供を産みたくない、という自由意志がある人については、条件の如何に係わらず子供を生むことは望み薄であって、逆に生みたければ多少の条件の悪さなど乗り越えても生むかもしれないと考えると、周囲が、ましてや国が到底”誘導”などできる話ではないということだ。
こういう人がどれほどいるのか、逆に条件が整わないから本当は欲しいけど子供を持てないという人がどれほどいるのか、もう少しきめの細かいリサーチが必要ではないだろうか。
新聞の指摘のように、まるで誰もかれもが条件が悪いから子供を持てないというような論調では対策を誤るし、現にずっと誤り続けているようにしか、私には思えない。
もし文明論的なテーマが底流にあるとするならば、人口減つまりは国力減を所与の条件として、例えば人口8千万の日本を想定してどういう国づくりをするかとか、移民の2千万人受け入れ策とか、そっちの方向で考える手もあるんじゃないか。
あるいは、既に子供を持っている人限定で(子供を持つ意志があったから子供がいるんだろうという前提で)さらにもう一人生んでもらうような施策とか、ちょっと振り切った対策も考えた方が良いんじゃないかと思うのだが。
コメの事⓶。コメは食糧安保の要(カナメ)とか言うけど、ホントに食糧安保なんて考えたことあんのか、って事。
現今のコメ価格の高騰と、トランプ関税と合わせて考えて、アメリカからコメを大量に買い付けてやればウインウインなんじゃね?
という論調に、農水大臣は「コメは食糧安保の要、外国に頼って良いことなのか」てな事をキゼンと言い切っている。
けど、大臣、それって悪い冗談だと思わないか。
「食糧安保の要」であるはずのコメが、たった1年で2倍に値上がりしている訳で、要はコメが潤沢に市場に流れていない訳で、これってまるっきり平和な、多少の酷暑の影響はあるにしても、戦争も何も起こっていないこの日本で、起きて良いことなのか?
こんなことが簡単に起きるような農政を、戦後延々と続けて来た結果として今がある訳で、安全保障の「あ」の字も農水省には言って欲しくないのだが、その辺どうなのよと、もし親しい人なら膝詰めで問い正したいところ。
結局これとて、コメを関税の材料に考えますなんて、一言でも漏らしたら農家「票」が全部溶けてしまうから、「コメは絶対死守!」と言わざるを得ないんだろう。
仮にアメリカがコメを買えと言ってきたら「それだけは言ってくれるな。代わりにコーンでも大豆でも、言うだけ買うから。」とか言うんだろうと邪推している。
とはいうものの、食糧安保の要がコメだというのに異論がある訳じゃあない。そうじゃなくて、実際はコメじゃなくて、農家「票」を守っているだけだから腹が立つんだ。
本当にコメが安保の肝だと言うなら、コメの供給をいかに頑健なものにするか、仮に戦争になってもその収量が確保され国民に不足なく供給される、その体制をいかにして構築するか、それが安保を考えるって事だろうし、ひいては農業、米作を(個々の農家を、ではなくて)守る事なんだろう。
随分前に、農政の権威の先生が言っていたことをこのブログに紹介したこともあるが、普段は相当量のコメを輸出できるくらいもっともっとたくさん、必然的に低コストで作って、いざとなったら輸出を止めることで安保を確立するべきという趣旨だった。
そのためのキーは、ともかくも米作の大規模化がイロハのイであるという事。現に農水省の資料にも、農家の田んぼの耕作面積別のコスト比較があって、例えば、耕作面積が1haの場合と20haの場合(実際はもう少し細かい区分だが)での単位当たりコスト(単位としてはコメ60キロ当たりと面積当たりの2種出ているものもあるが)はきれいに2倍違う。
中身を見ても、例えば労務費的な項目や農機具など、全ての項目で面積が小さければ単位当たりコストが高い。面積が大きくなるほど、グラフで見るとほとんど美しいカーブで、コストは低減して行って、20ha辺りで底を打つ。
農水省は流石というか当たり前というか、あんなデータやこんなデータが詳細に分析されていて、耕作面積が小さい方から戸数を数えて、全体の50%を超えたあたりの面積合計は全体のたった8%程度だそうで、圧倒的に小規模農家が多い様子なんかも知ることができる。当然農水省はこんなことをずっと前から良く知っている。
つまりは、国全体として圧倒的に高コストのコメ作りをしており、儲からないから個別農家への支援が必要になり、世代交代も進まず、消費者は外米に比してとても高いコメを食べている。
さて、これで「安保」なんぞと堂々おっしゃる神経を、疑わなきゃウソだろう。
だったら強靭なコメ作りができて、国内での食の安全保障体制ができるまで、上手に外米も取り入れた安保体制を構築して、さらに価格の安定を図るのも立派な「安保」だと思うが、どうなんだ。
この場合の問題はたった一つ、自民党の「票」が減る可能性。多くの国民は多分困らない。
コメの事。なんかめんどくさくなって中断してたけど、怒り心頭で久方ぶりに投稿
コメの値段が上がり続けているのは政府の不作為のせい、と言ったところで値段が下がるでも無し、しょうがないから不満をブログにぶつけて溜飲を下げようかと。
備蓄米を放出したけどコメ価格はじりじりと上がって行く訳で、これは何か裏があるのか、それとも純粋に需給バランスのせいなのか、素人に分かるはずもないのだけれど、個人的には政府もグルになって値段が「下がらないように」していると思えてならず、自分勝手に勘ぐっているだけなのは承知しながら、そう思えば腹が立って腹が立って気持ちのやり場がない。
腹立ちの根本は備蓄米の入札と言いながら、94%だったか、ほぼ全量に近いコメを「全農」が落としたことに発している。 「全農」は要は農協な訳で、全面的に農家の見方、農家のためにある組織じゃないか。ということはコメ価格が高くなることを良しとする団体な訳で、価格を下げようなんてインセンティブが働くわけがない。何でそんなところがほぼ全量を扱うのか。
まあ、何でと言っても歴史やコメ流通の国家的元締めであったりするからに違いないが、政府は「備蓄米の放出は価格について何の意図も無い。流通の目詰まりを解消するためだ。」とか言って国民の願いに「間接的に」対処する的な発言をしているけれど、なぜ流通の目詰まりを解消させるのかと言えば価格低減のためでしかない訳で、であれば全農は最悪の団体、絶対選択してはならない団体だろう。
そうであればナゼ全農なのか、考えられる理由はただ一つ、いや二つかな。
一つは20万ントンものコメを流通させるチャネルとかノウハウとか、その点で全農に敵うところはないから。
もう一つ、多分こちらのウエイトは相当高いと勘ぐっているけれど、選挙の票のため。なんてったって全国の農協を敵に回してしまっては自民党は青ざめてしまう。
過去のケースなんかもちょっと調べてみたら、古い人にはああ、あれかと鮮明な記憶だろうが、1993年に、凶作に近い不作が続いた「平成のコメ騒動」というのがあって、その時は国内の在庫が政府も民間も底をついたそうで、アメリカ、オーストラリア、中国、タイから、なんと259万トンものコメを緊急輸入したことがある。
当時はコメの国内消費量も今とは比較にならなかったし、海外から大量のコメを入れることに誰も文句は言わず(言えず)、失礼ながらタイ米なんて長粒米で、とても食えないなんてさんざんな評判だったが、大事なのは国中の在庫が枯渇したこと。これが契機で現在の「備蓄米制度」なんかが出来たんだそうだ。
ところが、これは2020年の農水省の資料だけれど、政府の備蓄は100万トン、JA他の民間の在庫が280万トンあって、これは年間の消費量の約半分、190日分に相当する量だそうだ。
そうすると、2024年とか2025年とかも、半年分くらいの在庫は「国」の中にはあると考えて良いだろうから、JAなんかは莫大な量の「高く仕入れた」あるいは「高く売れるはずの」コメを在庫として持っているはずである。
そんなところに、政府備蓄米を、全農的には「法外な安値」で放出されたりしたらそれはそれは困ってしまうし、それによってせっかく5kg4000円とかが定着したコメの価格が、また1年前の5kg2000円程度に落ち着かれたんでは身もふたもない。イコール、農家票が全部自民党から離れて行く構図なんじゃなかろうか。
国民には、流通がひっ迫していて価格が上がっているというストーリーを信じ込ませ、さらには諸色高騰の折まあしょうがないよねという気持ちにさせ、ガソリンとか消費税とか全然別のところに目を向けさせることで「コメ属」=「票」の安泰を図ろうという魂胆か。
これじゃ陰謀論かね。まあそれでも言った分だけ、ちょっとは気が済んだ(笑)
カスハラ条例、制定続々だそうだ。どんどん制定してカスハラ野郎をどんどん処罰して欲しいもんだ。
今日の日経記事で、東京に続いて北海道でも制定されたそうで、他にもカスハラを防ぐための条例を制定する自治体が増えているそうだ。
カスハラって、大体からして自分よりいろんな意味で「弱そうな」人とか、絶対手荒な反撃が来ないって分かってる人にしかしないから、そもそもが卑劣というか人品卑しいというか、まあハラスメントと言われる行為自体がそういう特徴を持っているのだけれど、情状を酌むに値しない筆頭のような行為だと思っている。
特に役所とか学校とか、これらの方々は絶対に「うるせえこの野郎、オモテえ出やがれ」なんて反応はありえないと安心感満点だから、文句付ける方は言いたい放題言える代表格みたいなもんだろう。
お店に文句言うのだって、対象は大体がレジの店員とかせいぜい雇われ店長とかが相手であって、下手な対応したら首になるかもとか、店の評判を落としたら責任なんて取りようもないという立場の人達だ。
これが、例えば県知事だとか教育委員会のトップだとか会社の社長とかにクレームを入れるような人はカスハラの域は超えて、立派な闘争意識の表れと言って良いのだろうから、どこまでやれるか、まあ気が済むまで頑張ってみれば良い。
さらに相手が解体屋とか土建屋(多くのその業界の方にはごめんなさい)だったりした日には、クレームを入れるにしても相当気を使って、少なくとも喧嘩にならないギリを気にしながらものを言うはずで、さらに異常に高額な料金を請求をする飲食店?に高圧的な態度をとったりするのは、よほどのチャレンジャーである。
だから、カスハラは自分の安全が保障されている所でしか起こらないと考えて良い訳で、最も効果的な対策は、相手に危険を感じさせることなんだろうとは思う。
実際にJRの方から聞いた話だが、駅勤務の時に事故だか何だかで電車が止まってホームが人でごった返している時に、人品卑しからぬ、管理職風の方がつかつかと寄って来てまあ吠えるの何の、自分なんかに言ったって電車が動くはずもないのに烈火のごとく怒りまくられて、周りに人も集まってしまってどうしようもなくなったことがあったそうだ。
ところがその時にいかにも「その筋」風の方が、人だかりの後ろの方から「ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねえぞ。駅員に文句言ったってしょうがねえだろう、クソ野郎が!」と一括してくれた途端その場が収まったという。
要は駅員に対しては絶対的な安全を暗黙の了解事項と信じていたのが、思わぬ伏兵の出現で一気に自分の身の安全が不安定になった。その瞬間カスハラは止んだということだ。
そのJRの方が言っていたが、大体何かあって文句付けて来る人はきちんとスーツを着たそれなりの立場にありそうな人なんだそうで、その時もいかにもそれっぽい人が近づいてきたので「あー、来た来た。やだなあ。」と、これから何が起こるか分かっていたそうだ。
これなんか典型的に上下意識が最悪な方向に表れた結果だと思うし、一方で理屈抜きの弱肉強食の世界に生きている人は、身に迫った必要もない時にわざわざ弱い者いじめなんてしないという事なのかなと思う。
役所でもお店でも、言論や腕力で、リミットを外して実際に戦わせたらとても強い人もいるだろうが、先に書いたように自分の判断で対応したら組織に迷惑が掛かったり、雇用が危うくなったり、あるいは警察沙汰になったりするのを恐れるがために不条理にじっと耐えているのだろう。
そんな相手の自縄自縛に付け込んで、相手の人格を否定するようなハラスメント行為を行うのは二重三重に卑劣なのであって、これがもし「頭にきた。決闘だ」と言うようなら、まだしもすがすがしい分だけ許せるのかも知れない。
そんなこんなを思うにつけ、ハラスメントを受けた側が適切に「反撃」できるようにしてあげるのはとても重要だと思う。是非自治体や企業等はその体制や環境整備を進めて、被ハラスメント側を守る対策を進めて欲しいものだと心から思う。
教員の「残業代」を上げるんだそうだ。でも、残業が前提の政策で初等教育が変わるとも思えないのだが。
新聞によれば、公立教員の残業見合い分ともいえる「教職調整額」を、今は給料の4%なんだそうだけど、30年度に10%まで上げる案がまとまったとのこと。
これって、政府も突っ込みどころ満載は承知で、とにかく対症療法でもなんでも、なんとかしないと教員の成り手がいなくなる、ってことなんだとは思うけど、こんなことしても教員の成り手は減る一方だろうと思えてならない。
心を病んで休職する教員が7000人を超えたとか、3年連続で増加したとかいう報道もあったくらい、根本的に教員という職業そのものの在り様が疲弊しているんじゃないだろうか。
単に長時間労働の問題だけじゃなくて、明らかにカスハラ的な保護者からのクレームやら、英語だITだと対応すべき教育スキルの広範さとか、今どきの社会の目が要求する生徒対応の難しさやら、私は教育現場を知らないから単なる想像に過ぎないのだけれど、一昔前の教員とは明らかにその負荷の程度が違っているように思えてならない。
だからそのためにやるべきことは給料の増額ではないと思う。政府は方向を間違えていないか。
それじゃあ何をすべきなのか、素人考えで言いたいことを言わしてもらえば、一つは教育や教師の聖性とでもいうべき観念を社会全体で考え直す必要があると思っている。
例えば最近は学校の部活をやめて地域に任せる方策が市民権を得ている。部活は旧来「青少年の人格陶冶」の重要な活動として学校教育の要素だったと思うが、それを、言ってみれば「もう無理」という理由であっさり手放した訳で、社会も「まあそうだよな、色々問題はありそうだけど」と一定の理解を示している。
としてみれば、まずやるべきは「これは教育上重要」と思われているけれど「ホントにそうか?」と一度疑ってみるべきじゃないか。
思いつくままに挙げてみるが、まず「学校行事の数々」。極論だが、卒業式は意味もあろうが公立の小中学校の入学は自然にできるんだから本当に必要か、文化祭、運動会、遠足、修学旅行などなど、コロナの時は全部飛んだぞ。
二つ目。「生徒の成績等の情報管理」。テスト問題の作成は教員がすべきだろうが、その実施や選択肢の機械的な採点やその記録、あるいは一覧化等のデータ整理等々は教員がやらねばならないのか。進んで内申書とか通知表の数字部分等々、IT化どころかAI化されつつある現代で教員がやらなければならない事はどこまでなのか。
三つ目。保護者と教員の面談や保護者会。これも狭義の教育上必要なもの、クレームに近い物、その他(どんなものがあるか良く知らないが)等を峻別して、それぞれ誰が初段の対応をするとか、どこで会うとか、どの程度時間を割くとか、対応しないとか、きちんと行政上の方針として毅然と対応、管理すべきだろう。
その他、事務的な仕事は教育を狭義に捉えるか広義に捉えるかで、雑務にもなるし教育の一環にもなるという事項は多々あるのではないか。そのうえで直接の教育以外の事務は事務員が行うことを、要は家庭や生徒が許容すれば教員の仕事から外せるはずだ。
大学の話ではあるが、日本では入試は「教員がやらねばならない神聖、厳正なもの」という意識が一般的にあるようだ。自分が教える学生は自分が選抜する義務があり、また権利がある、という意識らしい。
でもアメリカでは、選抜は専門部署が大学の方針に従って実施するのが一般的で、教員はその結果として集められた学生を一人前に育てるのが仕事と考えている。明確な分業制だ。メジャーリーグも選手の獲得はフロントの仕事で、与えられた選手を使って勝つのが監督の仕事、と明確だ。
そんな例からも「これは誰がやるべし」などというのは相対的なことが分かるし、聖性か合理性かなどと、尺度が替われば見えてくるものも違って来ると思う。教員の給料を上げるより、その分で事務員を増やして教員の仕事を減らすという政策だってあるだろう。その方が雇用政策としても有効だ。
やっぱりマズいと思うんだが。103万円の壁を一気に178万円にするってのは。
この件に関して、日経新聞に2日連続で学者先生の意見が掲載されている。観点は違えど、要は考え直した方が良いぞ、ってことのようだ。
今日の掲載記事は京産大の八塩教授。そもそも論として「減税の仕方」が問題じゃないかという指摘。
103万円の壁を75万円増額して178万円にすると、75万円分基礎控除が増えて減税効果があるけれど、これは逆に考えれば減税分だけ給付を行うのと同じことだから、年収2000万の人は32万円強、「毎年」国から給付を受けるのと同じこと、と考えられるのだそうだ。
同様に年収に応じて、年収が多ければ多くの給付、だんだん少なくなって行くのだけれど、ナント! 当たり前だが税金を払っていなかった低所得者は一銭ももらえない、って仕組みとも考えられる。
もっとも、今までは無税で働けるのが103万円までだったから、それが178万円まで広がれば75万円!も丸々収入が増えるじゃないか、とも言える。低所得者ほど効果は大きいんじゃね、とも見える。
だけれどちょっと待て。それは自分で汗水垂らして働いた結果収入が増えたんであって、上の年収2000万円の人は今までと全く同じ働きでも「自動的に」年に32万円も手取りが増えるんじゃわい。これはイリュージョン!!
モノは言いようというか考えようというのか、そう言われたら、この政策に賛成する人なんているんだろうか。(先生もそう言ってる!)
もう一つの記事はアジア成長研究所の八田理事長。
こちらは大学生等の親の扶養控除に関して書いているんだが、今の制度では学生のアルバイトなどの収入が103万円を1万でも超えると、親の扶養控除から外れて、親の年収から65万円分の特定扶養控除が無くなる。
そうすると親の税率に応じて、例えば20%の人ならば12.6万円、税金がたくさん取られる事になる。つまり世帯で考えれば1万円増えて12.6万円減る。都合11.6万円の損になる勘定だ。税率が高い人ほどこの損は大きい。
これを逆に考えれば1点目と同じ事情が見えて来る。103万円の非課税枠が広がれば扶養控除から外れるケースはどんどん減って、親が高収入者なほど現状では掛かる税金が掛からなくなる。つまり高収入の人ほど得をする構図だ。
そこで「消費控除」なる考え方を取り入れるべき、っていうのが八田先生の意見。
それは、例えば上記であれば、子供が104万円分働いて1万円分の収入が増えた場合、親の扶養控除から1万円だけ減額する。そうすると上記は税率20%の人だったから、親は2千円税金が増えるけれど、世帯で考えれば8千円のプラス。
同様に子供がたくさん働いたらそれと同じ額だけ親の控除を減らして行って、世帯で考えれば差し引き常にプラス、という方式だそうだ。これならプラスはプラスでも高収入の人の方が引かれる税額は大きい。もっとも社保の件があるからそちらの対応も必要だが、と先生は言っている。
いずれにしろ、いきなり178万円まで単純に非課税枠を広げることを良しとする識者なんて、ほとんどいないんじゃないかと思えてくる。
私は大いに疑っているんだが、国民民主党にしたって選挙前には政権のキャスティングボードを握ることになるなんて想像もしなかったんじゃないか。だから公約に「言ったもん勝ち」的な政策を高々とかがげてしまって、今になって引っ込みがつかなくなってるんじゃなかろうか(笑)。
与野党問わず政治家にはその道のプロもいる訳で、上記の先生方が言っている事も当然知識として持ってるんだろう。だからもし自分が政権与党ならここまで極端な政策なんか掲げなかったに違いない、と私は思っている。
野党の最大の武器は内閣不信任だろうが、今の野党ではうっかり総退陣でもされた日には大騒ぎなんだろうから、結局自民党からはとっくに足元を見られているんだろう。まあ喧嘩は相手の腹を見切った方が勝ちと古来決まっている。
色々強気なコメントを重ねてとうとう席を蹴ったりしてるけど、もう少し庶民、特に低所得者に実のある働きをして欲しいと思うのだが。
まとめて疑問符。国会ヤジ風に言えば「エエ~~~?!」。紀州のドンファン妻無罪、斎藤知事パワハラ調査。
昨日今日のネット記事で2件。どっちも言ってはいけないのだろうけれど、私的な感想としてはまさに、エエ~~~?!
まずは兵庫の斎藤知事パワハラ調査。
この件では県庁の財務部が行う内部調査、議会の100条委員会、外部の弁護士等による第三者員会の三者が調査しているようで、今回はその内の県庁の内部調査の報告が出たという事。
その中でパワハラについては「職員を強い口調で指導することがあったが、パワハラと認識した職員は確認できず、パワハラの確証までは得られなかった」という趣旨の報告をしたそうだ。
ちょっと待ってくださいよ。「強い口調で指導する」ってどんな口調でしょうか。「君、ダメじゃないかっ(怒)」って感じなのか「お前何やってんだ(怒)」て感じなのか。いずれにしても「強い口調で指導」されて今どきパワハラって感じる人が一人もいないって信じられます?
まあ、兵庫県庁の皆さんが一様に打たれ強くて、あんなの屁でもないさと感じたのかも知れないが、昨今の報道ぶりから考えると、むしろそんなことがパワハラか?って、昭和世代ジジイには信じ難い事例の方が多いし、そんなんで首が飛ぶ上司もたくさんいるように”認識”しているんですが・・・。
それに、知事の辞任前に発表されていた100条委員会の職員アンケートでは、見聞きした、も含めて結構なパワハラ事例が報告されていたんじゃなかったか。
違和感満載。結局公益通報の対応を間違えたとなると、知事一人の問題じゃなくて県庁全体の遵法意識とか人権保護の意識であるとか、意識にとどまらず体質・体制の問題となって、決定的にマズイ状況になるから、あれは公益通報じゃなかったとどうしてもそこへ持っていきたいんじゃないか、と思えてならないんだけど。
二つ目は紀州のドンファンの元妻に一審判決が出て、無罪だそうだ。
まあそれ自体、裁判なんだから論理による闘争と思えば、このケースのように決定的な物証が無い場合に、どういう結果になるかは門外漢には分からない話だし、多分これからも控訴だ何だと続いていく話なんだろう。
その中で「エエ~~~」というかまあ立証は不可能だわなと思うのが、覚せい剤過剰摂取の方法に関する、検察、弁護双方の言い分。
致死量的にはカプセル30錠くらいが必要とのことで、検察は「30錠もの薬を誤って飲むなんて考えられない」という立場だそう。一方の弁護側は「30錠もの薬を意思に反して無理やり飲ませることなんか出来っこない」という立場。
まあどっちも「なるほど、ならそうかあ」、ミルクボーイか、ってことになりそうなんだけれど、私的には「誤って飲む事はあり得ん」派かな。意思に反して飲ませるのはなんか方法がありそうに思えるが、確かに間違って薬30錠はありえんよなあ。その可能性があるとしたら自殺だろうな。
まあ他にもいろんな「状況証拠」はあったみたいだけれど、弁護側が「灰色をいくら塗り重ねても黒にはならない」と言ったそうで、それもまた絵の具の世界なら「でも相当黒くはなりますよね」と言えなくもないけど、論理の世界ではその通りで、詰めて行けば無罪なんだろうなとは思うところ。
そんなこんなで、正直そういう結論は予想していなかった、という個人の感想に過ぎない話なんだけれど、結構「エエ~」だったので書いてみました。