玉ねぎの仇は長ネギで返す?お隣の政治がネギで大騒ぎのようだ。

韓国のユン大統領がスーパーに視察に行って、長ネギが100円くらいだったのを「合理的な価格」と言ったら、庶民の事を分かってないと総攻撃を喰らっているらしい。

 本当は今は300円くらいするのだそうで、100円は破格の安売り値。そんなことも分からないで大統領が務まるか!ってことのようだけれど、個人的にはネギの値段が分からなくても十分務まるんじゃね?としか思えない。

 消費者物価指数が分からないと言うんなら、そりゃ大統領失格かも知れない。しかし対象はネギだ。攻撃している方々はネギでも大根でも、あるいはキャベツ、白菜、ニンジン、ジャガイモ、あるいはサラダ油の値段を知ってんのかい、って思わないか。

 政治家に限らず、普段スーパーで買い物をしないサラリーマンだって、私のような家事はほぼできないジジイだって同じ事。試しに街頭で聴いてみればよい。ほとんどの人は良くて当たらずとも遠からず程度だろう。

 今回の事で、ネギ100円は1年前ならあながち見当外れでもない感覚だろう。その意味では「よくご存じで!」と言われて良いのかも知れない。逆に500円くらい?と言わなかっただけ、セレブ感がついついにじみ出なくてラッキーだったかも。

 大体あの奥様の風体を見たら、家族こぞってネギの値段なんかご存じないと思う。ユンさん元々は一国の検事総長だ。検事総長がスーパー通いしているような国だったら、そっちの方が国民は心配にならないか。

 別にユン大統領を支持している訳でも何でもないが、韓国も日本も、政治の世界で「そんなことも知らないで良く務まるね。」という類の「そんなこと」って、政治家で格の上の人が普通知らないだろう、あるいはそれを知ったからなんだ、という類が結構ある気がする。

 我が国でも当時の麻生総理がカップラーメンの値段を聴かれて、400円くらい?と言った事があった。でもそもそもあの人は庶民じゃないし、自分で買い物なんかするとは誰も思ってない。そんな人に野党議員がよりによって国会で質問をしたのだ。

それで鬼の首を取ったように「この人は庶民の事が分からない。ダメな奴だ。こんな人に国を任せられるか!」って、相当見当はずれなお祭りに仕立てるから良くないな。

 ネギが300円するとか、あれが200円だこれは500円だと、そういったことは日々の暮らしを直撃するし、低所得や年金生活層にあっては文字通り「食うに困る」状態の方もいるだろう。

 その時に為政者が自分たちの事を分かってくれないと思う気持ちも分かる。何とかしてくれない政府は交代してくれと願うことも理解はできる。

 ただその状態というのは、国政であってみれば、〇町の佐藤さんや◇村の鈴木さんが生活に困っていると理解することでは無い。あくまでも国民レベルで、その所得水準とか物価水準とか、あるいは為替も絡んだエネルギー価格の動向だとかのレベルで把握して対策を考えるのが仕事である。佐藤さんや鈴木さんが困っていることは情報として意味を持つだろうが、その支援をどうするかは町政や村政の仕事だ。

 そういったレイヤーの違う出来事をある種のイベントに仕立てて、民衆を煽って、政府を貶めるとか、自党の支持を取り付ける行為は、あまりにも下品に思うのだ。

 仮に政権交代が実現したとして、物価高で庶民の不満が高じれば、また時の為政者が「ところで豚コマのお値段はご存じ?」とか聞かれて、「豚コマなる物は、私寡聞にして存じ上げないのですが、1000円くらい?」なんてへんてこりんな問答が国会の場で繰り返されるのだろう。

 かつての田中角栄総理は庶民宰相と言われたが、確かに出自は庶民中の庶民ではあっても、宰相となる頃には目白”御殿”にお住まいであって、誰も庶民だなんて思っていなかった。世界中の総理だの大統領だのの多くは控えめに言ってもエリートであり、貴族までいる世界である。

 今回のような騒ぎは、どう考えても不毛だろう。

 

 

 

川勝知事はやっぱり学者さんなんだろうな。今回の発言も何かと考えさせてくれる。

川勝知事と言えば発言が何かと物議を醸して来た方だけど、そのたびに、私なんぞは色々と考えさせられて来た。

 一つは、教授だの学長だのをやられた方だったのだから、おそらく大変頭の良い人だろうに、何故、何度も何度も失言を繰り返すのか。

 ヒトは普通、失敗から何かを学ぶことができるはずで、相当の知性を持っていながらそれができないとなると、失礼ながら持って生まれた性格か、何かの病気か、あるいは確信犯か、いずれかなんだろうけれど、少なくともその時々に反省の弁なども述べているから確信犯ではないだろう。

 まあ妥当なところで、そういう性格なんだろうなと思っておくことにしても、以前は辞職勧告まで出されているのだし、相当に懲りているのが普通だろうが、それでもヤラかすんだな、これが。

 もう一つは、普通なら人前ではまず言わないような、こんなことやあんなことを言う人がなぜ4選もされたんだろうということ。その魅力は何か。

 もう大昔の事になるけれど、田中角栄という方は、ロッキード事件の一審有罪判決が出た後ですら、聞いたことも無いような圧倒的な票数で選挙を突破していた。それは何故か。新潟3区の選挙民でなければ分からない、信仰に近い支持があったんだろうとは思うものの、それでもやはり理解の外ではある。

 同じようなことをこの川勝さんにも思うところ。静岡県民がこぞってリニアに猛反対なんてことはないと思うし、こぞって環境破壊にとてもセンシティブ、ということも無いと思うのだが、きっと何か知事に相応しいと思われる資質を備えているんだろう、と思うしかないが、もしかして、3選までは普通の人だったのか?

 そしてもう一つが、リニアへの反対の姿勢。はたから見ているともう妨害としか見えないのだが、何があそこまでリニアへの反対に駆り立てるのか。

 報道から聞こえてくるのは県内の水資源の問題とか、開発による環境破壊の問題とかが理由らしいが、本当にそれだけなんだろうか。

 以前佐賀県だったと思うが、長崎新幹線の地元負担をめぐって、当県としては何のメリットも無いから負担もしないし、新幹線も要らないと言うようなもめ事があった。

 こういう理由なら、ことの是非はともかくとても分かりやすい。コスパに照らせば負担が多すぎると言って文句を言っている訳で、ある意味とても分かりやすい。

 静岡もそういうことなんだろうか。得をするのは東京、大阪、名古屋だけじゃん、静岡には何の得も無いよな、と言ったら子供じみてカッコ悪いから言わないのか。あるいはそもそもリニアの計画自体、国家国民のためにならないという大局的なお考えに基づくものだろうか、などなど想像が膨らむのだ。

さてここへ来て今回の「~と違って、みなさんは基本的に頭脳、知性が高い人たちです。」発言には改めてたまげた。これはやらかしたな、と不謹慎にもちょっと笑ってしまった。

 当然のように、一斉に「職業差別」と騒がれてもう収拾がつかない。辞任を口にしたようだが、本当に辞めるんだろうか、と一抹の疑念も持ちながら、まあ妥当な線かなとも思うし、いよいよこの人にとっては、マスコミなどいろんなところから責められるのに嫌気がさしたかな、とも思うところ。

 ただ、やはり考えさせられたのは、同じような表現で責められない言い方は無かっただろうかということ。

 例えば頭のところを「私と違って、みなさんは~~。」なら何の問題もないし、あるいは「前例や規則を盾に新しいことに挑戦しない人達と違って、みなさんは~~。」などでも良かったかも知れない。これなら役人の悪いところに染まるな的な意味で、もしかしたらマスコミや世間から褒められたかも知れない。

 ちょっとギリになり兼ねないが「決められた事務を機械的にこなすだけの人と違って、みなさんは~~。」あたりもセーフかも。

 まあ、とはいえ言っちゃったんだし、言葉と屁は一度出たら引っ込みがつかないのだから、大きな代償もしょうがないよね。

 

 

兎に角大谷。奥さんから一平まで、彼の周囲はニュースの宝庫。

ドジャースの一員として早速マルチヒットに打点も付いて、しかも相手がダルビッシュに松井とくれば、とにかくこの男はついているのか持っているのか。

 昨日の試合、なんとなんとNHKの地上波とは恐れ入った。しかもNHKのニュース番組のエースと言われる7時のニュース丸被りで、サブチャンネルまで使っての番組構成。

 時はまさに春の甲子園に大相撲大阪場所と、NHK独占放送番組の真っ盛り。余計なことだがNHKFMなんて、甲子園と大相撲のせいで、いつも楽しみにしている番組が飛びまくって迷惑しているのに、さらにTV地上波でメジャーリーグまでぶっ込んで来るとはちょっと驚いた。

 今どき日本のプロ野球なんて各局共に地上波ではお目にかかれないのに、アメリカ野球を今日は今日とてテレ朝系が地上波だそうで、しかも今日は、サッカーのワールドカップアジア2次予選を日テレ系、水泳のオリンピック選考会がNHKで同時間帯でバッチリ被りつつの放送だから、放映権にいくら払ったか知らないが、ペイできるんだろうかと要らぬ心配。

 それもこれも、全ては大谷翔平ただ一人(とは言い過ぎか)のおかげで起きた現象ではあり、本人の稼ぎも桁外れだが、そのコマーシャルベースでの影響力は破壊的であることが、改めて実感される。

 そこへ持ってきて今回の騒動には奥さんという奥の手が加わって、老若男女、あまねく関心の置き所が用意されているのだから、各マスコミも寝る暇もないほどの入れ込みようなのだろう。

 この男は、よくよく人の注目を集める星の基に生まれたと見えて、計算している訳でもないだろうが、行動がいちいちツボにはまる。

そんなこんなで感心したり驚いたりしていたら、今日の昼になって、またとびっきり驚くニュースが飛び込んできた。

 速報レベルだから真相も何も分かってはいないが、通訳の一平さんがドジャースを解雇されたという。少なくともこの「解雇された」ことは球団も認めているとのこと。

 TVの伝えるところによれば、彼がFBIがマークしているような違法なスポーツ賭博で大負けしていて、その支払いのために大谷の口座から6億円とか7億円とかに相当する金を動かした(失敬した?)ということのようだ。

(ここからは個人的な、勝手な想像でしかないので、そのつもりでお願いします。)

 これを聞いてまず思ったのが、違法賭博でFBIもマークしている賭博ということだから、日本的に言えば反社が関係する賭博だろうという事。そこで大負けしたとなると、相当きつい追い込みを掛けられていたんじゃないか、ということ。

 次に思ったのが、スポーツ賭博って野球も対象だったのかなということ。もしそうであれば大谷が事情を聴かれたりする可能性もあるのかなということ。

 三つめが彼の奥さんは知っていたのかということ。多分知らないのじゃないかと思うが、そうであればとても可哀そうだということ。昨日の放送でも大谷の奥さんと並んで何度もTVに写されていた。その幸せそうな表情が一瞬で絶望に変わるのかと思うと何とも切なくてやりきれない。

 いずれにしろ、私など何の関係もない話であり、野次馬根性で話題にするべき話でもないとは思うけれど、普通の人間が巨額な金銭が動く世界に近づくと、時に人生を狂わすんだなと、漠然と感じた次第。

 大谷ほどの突き抜けた金持ちになれば心配ないだろうが、中途半端なメジャーリーガーなどは結構な頻度で引退後に破産すると何かで読んだ記憶もある。一度身についた、一般的には異常と言える金銭感覚がなかなか抜けないのは、金持ちになったことがなくとも、なんとなく想像はできるし何とも悲しい人間の性だとも思う。

 一平君もそんな罠に嵌まったのだろうか。

 

金利金利! 大河ドラマは禁裏の話! 今年は「キンリ」の年と記憶されるだろう、なんてことはないか。

いよいよ日銀のマイナス金利政策が終了。今朝の新聞はいずこも1面トップ。日経はそのほか合計8面に渡って関連記事が踊っている。歴史の1コマって事らしい。

 かなり以前から3月か4月かと、かなりの確度で分かっていたことだから、記事の下原稿なんかも準備万端整っていたんだろうし、紙面割も相当前から予定されていたんだろうなと思うけれど、実際に紙面になって目にすれば、なんとはなしに普通の世の中に戻るんだなと感慨深く感じたりもする。

 世代的に社会人の始まりはバブルと共にあったから、当時の金利のすごさは経験しているし、年月を経て住宅ローンのお世話になる頃には、そんな低金利で借りられるなんてラッキーと思ったし、さらに年月を経て最近になって、自分の子供の住宅ローン金利を聞いたときにはそんな金利で銀行はやっていけるのかと、驚いた。

 高度成長に生まれて、長じては失われた30年の全てを社会人としてリアルに生きて来たんだと思えば、随分長く生きてしまったんだと、今更ながらびっくりしてしまう。

 これから先何年生きるか知らないが、もう一度バブルのような金利を目にする事があるのかどうか、たぶん見ることはできないだろうけど、せめて定期預金金利が3%くらいはあって、日本が輝いている時代がまた来るかもしれない、とうっすらでも思える地点にまた立てたことは喜ぶべきことなんだろう。

とは言え、いくら事が今始まったばかりにしても、普通預金金利を20倍にします!って、いくらだと思えば0.02%だと聞かされれば、それはそれでガッカリではある。

 従来の金利0.001%を20倍にして0.02%だとお?「今100万円をお預けいただければ、1年後には100万2百円にしてお返しいたします。」って言われて誰が喜ぶんだ!

 とは言いながら、銀行の言い分も分からなくもない。

 逆に借り入れの場合、これはTVで見た数字だが、住宅ローンを5000万円、35年返済で借りた場合、今回予想される利率の上昇で返済総額が100万円ほど増えるのだそうだ。

 35年で100万増えるのだから、単純に言って年間3万弱!しか増えない。5000万円借りても年にして3万弱の増、まあその程度の金利の変動だそうだ。

 であれば、預金も今までは5000万円が1年で5000万5百円でしたけど、今後は5001万円ですからね。それはそれは大盤振る舞い、盆と正月がいっぺんに来たようなお祭り騒ぎでございます!と言われれば、冷静に考えてみれば、まあそうですねと言わざるを得ない。

 金利金利金利のある世界が戻ったといっても、当面その程度の事のようだから、庶民の生活は今までと何が変わるわけでもなさそうだが、同じ1変化するにしても1が2になるより、マイナス1がマイナスでなくなって0になるのはやはり重大な変化には違いないだろう。

 ここから先が早いのか、はたまた停滞するのかそれは分からないが、経団連の十倉会長が言ってたように「ようやくぬるま湯の時代が終わった」という認識が社会に定着すれば、また日本が輝く日が来るのじゃないだろうか。

 輝ける日本などと言っても、若い方には全くピンと来ないだろうが、そんな時代が確かにあった訳で、個人的には決して夢物語とも思わないのだが、まあ、どんなことになりますやら。

 

久しぶりに株について。株価の上昇とは言うけど、冷静に考えると意外と大したことがないなと思うって話。

ここしばらく日経平均が4万を超えたとかちょっと下がってしまたとか、やれバブルっぽいだの、イヤイヤ全然まだまだ、だの聞かされるととても落ち着かない。

 この波に乗り遅れてはいけないって事なんだと思うし、そう思って動いている人も結構いるようだけれど、冷静に考えると最近の動きに対応したからって別に大したことは起こらないことに気づく。

 例えば1か月前の日経平均株価終値は36,863円。まだまだ史上最高値更新は見えてもいない。その後38,000円台に乗ったのが2月15日。そこから史上最高値更新までは早かった。

 で、今が4万円あたりをウロウロしていて、これがさらに上へ行ったらさあ大変、バスに乗り遅れるな!ということなんだけれども、じゃあ、実際にこの1か月の上がり方をちょっと立ち止まって考えると、比率にして8.5%の上昇でしかなくて10%にも届いていない。まして38,000から考えれば5.3%。

 機関投資家が億単位の投資をするのであれば1%でも100万円単位の差額になるから5%だの8%は、それはでかい。

 でも庶民の感覚で言えば、仮に100万投資したとして、5万から8万くらいサヤがとれただけ。

 くどいが、100万でもままならない、じゃあ10万程度で、となるとその程度の投資では5千円とか8千円の儲けで、さらに20%は税金を取られるのだから、これはもう儲けとも言えないレベルではなかろうか。そう考えれば今になって慌てて参戦しても、耳で聞く感覚と実際に「自分の」手元に得られるお金との感覚は相当にずれているなあというのが実感。

 せめて1,000万単位の投資でもできれば、50万とか80万とか、まあそれなりの金額が動くわけだけれども、そもそも1,000万を株に使える人って以前からそれなりにいろいろな投資をしているだろうから、たぶん今は、逆にじっとしているんじゃないかと思ったり。

 実際に自分でも株を少々やっているが、まあ下手糞の見本みたいなもので、買えば下がる、売れば上がるの連続で、誰か私の手口を見てるんじゃないかと本気で思ったりする。それはともかく、

 以前知り合いの証券会社の人におすすめの株を聞いたことがあって、それ自体は買わなかった(というか、全部なんてとても買えない)のだけれど、仮にそのお勧め、10種全部をその時の価格で100株ずつ買ったらどうなるか、という実験を続けている。(Yahoofinace、でポートフォリオ登録をすると毎日勝手に計算して一覧表にしてくれる。結構面白い。)

 そのバーチャル投資を始めたのが4年前の2020年の初頭のこと。銘柄も書いたって良いのだけれど、ともかくもその時の仮の買値が全部で6,272,800円。

 で、4年後の今はそれが8,686,000円。240万以上儲かって、率で38%超。平均すれば毎年60万くらいのボーナスが得られた計算になる。あの時600万の現金があればと悔いる金額ではあるし、年月の重みを実感するところ。

 と書くと、とても儲かったようだけれども、225種で計算する日経平均で考えれば当時は24,000円くらいだから。こちらはナント! 67%の上昇!600万分を買っていれば1,000万になっている!

 だったら日経平均に連動するETFを買っておけば良かったという話で、証券会社の専門家にしてまあこんなもんなんだなあ、と思えば自分の下手さ加減は納得が行くというもの。プロはそれでもきっちり利益を出している。ちょっと少なかったけれど。

 結局のところ、最初に書いたように今の喧騒も良く立ち止まって考えて、我がこととしてリアルに自分がいくら儲かるのか、逆に損をすることも十分にあるぞと計算してみた方が安全だし、それほど浮かれるような状態でもないということに、改めて気づくという話です。

入試における公平公正について考えてみる。たまには真面目に。

中学校の先生が願書の提出を忘れていて、生徒が高校を受験できなくなったという件。願書の提出を受け付けなかった高校の言い分は「公平公正」のため。

 締め切りを過ぎたら門戸を閉ざすのは我が国において常識といって良い。ここをルーズにしたら収拾がつかなくなるだろう。まして入試に係わる事であれば、公表された基準規則は一ミリたりとも動かすことはできない。入試にとって「公平公正」こそが死守しなけらばならない規範であり、価値観である。

という事なのだろう。が、逆に入試の事であってみれば「本当か?」と疑ってしまう。

 まず、入試においては過去に幾度も同類の事案が起きている。そのたびに罪のない生徒が被害を受けているにも拘らず、また同じ過ちが起きた。ここで「過ち」というのは何の罪もない生徒が被害者になったという事を指している。

 であれば、入試に携わる者として、願書を提出する者も受け取る者も、罪のない者の被害を防止するための手段を講じていてしかるべきであった。

 しかも許しがたいのは、今回の場合であれば高校側は、おそらく自らの負担を軽減するため、中学側に願書の取りまとめを依頼あるいは条件にしていると思うが、にもかかわらず、中学側のわずかなミスに公平公正を金科玉条のごとく振りかざして生徒の受験機会を奪ったのだ。

 事前に取るべき手段はいくらもあっただろう、それもごく簡易に。例えば締め切りについて「〇月〇日〇時締切。ただし、期限を過ぎても本人の責に帰すべきでない事由による場合は適切に判断する。」とするとか、いっそ「本人からの郵送に限る(中学校等が取りまとめて提出することは認めない。)」などと要綱に明記しておくだけで済む話である。

 また事後において、中学校の校長が出向いても原理原則で拒否したようだ。これも例えば「このような事案が起きたが、締切超過はごく僅かであり、また過失の程度も軽微で、しかも受験希望者本人には何の過失もないので特例的にこれを認めた。」と発表すれば、おそらく誰も文句など言わなかっただろう。公表することで公平公正は保てたはずである。

 次に、そもそもの話として、今どき「入学願書」なる時代錯誤な文言の書類が普通に存在していて、面倒な書類を山ほど請求するからこのような事案が発生するのであって、「入試申込」とか「受験申請」とかの形にして、ネット経由を基本とするなど、中間に在籍学校など入れさせなければ良い。

 国家資格の試験でも今どきの申し込みは大抵ネットで、登録事項も氏名、住所、電話番号、メールアドレス程度である(入試なら在籍学校の情報も必要だろう)。それで本人の同定は十分可能なはず。しかもこの方が個人情報の取り扱いとしては適切である。

 そのうえで、申し込みを受け付けた方が当人の在籍する学校に、必要に応じて卒業見込証明や成績証明、内申書などを請求すれば良い。さらに入学に必要な書類ならば、合格者だけに後日請求すれば、不合格者の個人情報を入手してしまうリスクも低減するし、何より入試全般の手間は省ける。

 そういった工夫も努力もなく、同じ過ちを繰り返したことを日本中の入試関係者は重く受けとめるべきである。

 今回訴えられるべきは高校や教育委員会の不作為であると私は強く思う。あるいは適切な指導をしてこなかった文科省か。被害を受けた方には申し訳ない言いようになるが、中学校がやったのはミスだから、悪いのは悪いが、私の考え方からすれば悪さの程度が前者とは違う。

 本来入試は、学校が試験の点数の高い者から順番に合格させなければならないものではないはずで、学校がその学校に相応しい、入学して欲しい、学校の発展に資する、と思う人を広く公に求めて選抜するためにあるはず。そういう入試本来の在り方に照らした場合に求められる公平公正とはいかなるものなのか。常識にとらわれずに根本から考え直すべきだと、常々そう感じている。

 

 

東京マラソン終わったけど、男子の日本人1位は全体の9位。まあこんな感じなんだな。

今回は10位までの9人をアフリカ系の選手が占めた。日本人選手とは1部リーグと2部リーグとか、F1とF2とか、クラス分けしないとどうにもならないのでは?と思ってしまう。

 このレースに人生を賭けて臨んだ選手もいるだろうし、パリオリンピック選考の最後のチャンスでもあり、望みの絶たれた選手達には同情を禁じ得ないし、頑張ったねと労いたい気持ちはある。

 ただ、純粋に競争として見ればもう勝負にならないレベルで、この先トレーニング方法とか何かでこの差を縮めることができるとも思えない。(女子もゴールを4人まで見たけど、4位までの3人がやはりアフリカ系の選手だ。)

 おそらくはパリオリンピックでも似たような展開になるのだろうが、日本人だけが遅い訳でもなく、東京オリンピックでは大迫選手が6位になっているのだから、その意味では日本人はそれでも比較上位と言えるのかもしれない。

 とは言え、単に順位の問題であればまだ可能性もあろうかと思えるが、これがタイム差で4分とかになると、距離なら1500メートルに近いから、ちょっと絶望的な差に思える。

 スタート前の放送では、男子のペースメーカーの設定は2通りあって、片方は2時間を切れるくらい、もう片方は日本人のオリンピック選考に向けた2時間5分50秒を目安にしているということで、端から日本人選手は第2集団前提でレースが設計されている。

 しかも今回のレースでは、早い方のペースメーカーは選手自らのペースに対応しきれず、本来30キロまでが任務のはずなのに、20キロあたりから脱落し27キロまでに3人とも途中離脱するほどのスピードでレースが進んだ。これではやっている競技が違うようなもの。

こうなるともう骨格や筋組成など、身体能力が根本から違っていて、少なくとも「走る」能力においては限界値が違っている前提で取り組むしかない。

 その点、日本には国技?として相撲があるし、柔道だってもともとは体格差などは考慮せず、階級分けなしに競技する伝統があるのだから、「柔よく剛を制す」とか「小よく大を制す」の精神で、「らしさ」を発揮する道を行くべきだろう。

 競技だと思うから勝った負けたに拘るのであって(笑)、ここはひとつ大和魂を大切に「勝って奢らず負けても悔いず」の精神で「道」、つまりマラソン競技から「マラソン道」に昇華させ、自らの人格陶冶や人としての道の追求のために走るのだと、孤高の精神を貫くのが良いのではないか。

 マラソンの名選手はアベベといい、瀬古といい、近年ではキプチョゲといい、みんな走っている姿は求道者のそれであり、人生の深奥を見つめているかの風格が感じられるものである。しかもそれで勝っていたのである。

 日本の女子選手も、今も名を残す高橋尚子野口みずきは、走る、走れる喜びを体中から発しながらゴールしていたし、野口なんかゴール直後に「走れることが幸せです」と泣いたこともあった。また「走った距離は裏切らない」とか「楽しい人生と楽な人生は違う」とか名言を残していて、まさに走ることが人生修行であった感がある。それで、やはり勝っていたのだ。

 映画や小説でも、フォレスト・ガンプはただ走りたいから3年の余も走り続け、「遥かなるセントラルパーク」では登場人物それぞれの人生を、3か月に渡って延々と走るという行為に仮託した大感動作品である。長距離を走ることは、単に「走る事」ではないのだ。

 日本人はこれで行こうじゃないですか。道を究めるために走りましょう。見ている人もこれからは「彼は今何を思って走っているんだろうか」とか「むむ、今、無の境地にいるな。できる!」とかそんなことを考えながら見れば、ラップが下がったの、何秒遅れたのと気を揉みながら見るより、同じ2時間が何倍も価値あるものとなるでしょう。

 全くのおふざけで書いていると思われると心外なので、ある程度は真実もあるんじゃないかと暖かくお目通しいただくとありがたい。