少子化がものすごいことになっている。都市の消滅って、どうやら本当みたいだな。

国立社会保障・人口問題研究所の発表で、2023年に生まれた子供が約75万8千人。推計では2035年にそうなるはずだった。しかもそれは2022年に行った推計。

 しかも結婚した人も約49万組で、50万組を下回ったのは戦後初とのこと。日本ではいわゆる婚外子は諸外国に比べて圧倒的に少ないから、婚姻数はダイレクトに出生数につながる。

 ただでさえ少ない子供が成長して、結婚するのも少なくなって、たぶんまた少ない子を産んで、それを向こう数十年繰り返すのだろう。さらにその間、一番ボリュームゾーン団塊の世代高齢者が、平均寿命からしてどんどん死んで行く訳で、たくさん死んでちょっとだけ生まれるという時代が続くから、まさに幾何級数的ってスピードで人口は減っていくのが決定したようなもの。

 なんたって、ついこの前の推計を12年も前倒しで達成?したってのはショッキングな話で、それなりの数学的、統計的手法が通用しないということは、今起こっていることが従来の延長にはないことを物語っているんだろうから、対策なんぞ立てようがないことに繋がるんじゃないか。

さらにショッキングなのは韓国。23年の合計特殊出生率がなんとなんと、0.72。生まれた子供は23万人。10年前の半分とのこと。

日本と韓国とは、同じ極東の島国や半島国であり、第2次世界大戦では敗戦を経験し、その後時期こそ違え、いずれも高度経済成長期を経験し、今ではグローバル資本主義の中で一定の地位を占めている。

 また、学歴社会であったり、多寡はあるが儒教的精神の影響があったりと、諸種共通項があるので、その辺に何らかの少子化に至る鍵が隠されているのかもしれないとは思うが、まあ専門家でも良く分からないのだろうからとやかく言っても始まらない。

ともかくも現実はすさまじいのであって、本当に各地で都市消滅が近々発生するレベルに達したと思った方が良いと思うし、そろそろ本気で覚悟を決めた方が良いのかもしれない。

 ちょっとSFじみた話になるが、自分の住んでいる街、というか市や区の単位で、それが消滅する時に何が起こるんだろうと考えてみるのも、全く切り口が違うがある種の「少子化対策」として有効な気もする。

 人口がどんどん減った時は、まずは「近所の空き家が増えたなあ」あたりから実感が出て来るのか。次にスーパーやコンビニが閉店する。地場の小さい企業が倒産する。職を求めて都会に出る人が多くなる。町内会とかコミュニティが機能しなくなる。そんなこんなで、ごみの収集が来ない、あるいは費用がべらぼうに高くなる、あたりで「もう住めない」かね。

 電気、ガス、上下水道辺りはインフラがダメにならない限り、また耐えきれないほど不経済にならない限り供給は止まらないだろうから、道路もしかり、その辺の要因はかなり時間軸としては後の方になるだろう。

 そうしてある程度の集住が進めばどこかで均衡点が出てきて、少ない出生数でも後はまた100年単位で生活は成り立つのかもしれない。

 そう考えると問題はもっと大きな国力、つまりは国の経済力や国防力だろうが、そちらはたとえばTOYOTAが今と同じだけの自動車を作っても売れないし、そもそも人手がなくて作れないだろうから、どうにもこうにも縮減するしか手立てもないだろう。

 その時に困るのが今の経済圏が自国だけのものでなくて、世界の中でしか成り立たないこと。とは言え、アメリカやアフリカはともかく、ヨーロッパや東アジアも一緒にシュリンクして行くから、まあ日本だけじゃないさと楽観的に生きることができるかも知れないし、どこかの属国になる運命かもしれない。

 と、素人が考えても仕方がないから、こうなった以上俎板の鯉の心境ではあるが、今やろうとしている国の少子化対策が税金の無駄使い、何の効果も発揮しませんでしたとはならないように、そこはぜひともお願いしたい。

政倫審をやるやらないって揉めてるけど、やったらどうなるの? で、やらないとどうなるの?

「政倫審」というのは過去にも何回か開催されたようだけど、そんなのがあったんだと、この歳にして知らないことの多さに改めて気づく。

 で、これをやる意味というのか、やると何が起こるのかが良く分からない。どんな落としどころ?とか良く分からないことだらけなんだけれど、どうなんでしょう。

 例えば、対象の議員を辞職させることを目指しているんだろうか。でも、今回の対象者は検察が立件しなかった人達であり、議員辞職を迫ってもする訳がない。

 規則上政倫審は非公開が原則らしいが、TVを入れる入れないが攻防のテーマになっている様子からすれば、要は対象者を吊るし上げて野党政党のポイントを稼いで、来たるべき選挙に繋げたいという思惑なんだろうか。

 街頭のインタビューでも、結局みんな良く分かっていないんじゃないかと思うんだけれど、例えば「全く説明が足りない」とか「納税の意欲が無くなる」とか「政治に不信感が募る」という声が多いけど、これらが正義の実現を目指しての発言とは、失礼ながら思えない。仮によく説明されて事の経緯や金銭の使途が分かっても、納税したくなるはずもなし、政治不信が無くなるものでもないだろう。

 してみれば、インタビューの皆さんもマスコミなどで使われているワードをあたかも自分の思いのように思って口にしているのかもと、これも失礼ながら、そんな風に思えて来る。

 であれば、説明責任と言い、国民の知る権利と言っても、所詮は「隠されると見たくなる」とか「悪い奴はとっちめてやらないと気が済まない」的な、ただただ不愉快とか向かっ腹が立つという事なのかなと、思い切り程度の低い感想が沸いてくるのだ。

つまるところ、良く分からないながらも、不正を正すのは極めて大切なことなので、やるなら「きっちりと」かたを付けてくれと思うのだ。

 こういう不祥事系の話が大きくなるといつも思うけれど、単なるイメージ戦略的なケースも多くて、もし今回もそんなことなら、それこそ国民は飽き飽きしているから、もうやめてくれって気分にもなる。

 野党が本気で倒閣を目指して政権交代をしたいなら、それなりに国民も緊張して事態を認識すると思うけど、過去は「内閣総辞職だあ」と迫りながら、最初から数で勝てる訳もない不信任をセレモニーとして提出して、即決で否決してお終いのケースが多い。そんな時も野党が目標の未達を支援者に詫びたり、党首が責任を取ったりした例も寡聞にして聞かない。

 そこまで行かなくても、もし議員辞職を迫るなら迫るで、しっかりと辞職させられなければ負け、責任問題、くらいの覚悟を決めて腹を据えてやってもらうと見ごたえもあるんだが。

結局のところ(支持者には申し訳ないが)今の与党がダメだと言っても、じゃあ野党が政権を取ったらハッピーなのか。そうとも思えないから政治不信になっているんじゃなかろうか。

 例えばの話、政権交代によって清新な政治の実現や福祉の充実など、おそらく今よりは期待が持てることも多いだろう。

 が、トランプや習近平と渡り合うとか、ウクライナ問題でEUと交渉するとか、あるいは国防を強化するのか否かなどなどの問題について、今のように与党の失策を喜んでいるような、その挙句兜首の一つも取れないのに恥じることも無いような人たちで大丈夫なのだろうかと、不安になる事もまた多いだろう。

であれば今野党がやるべきことは、与党攻撃をするのに並行して、いやそれ以上の情熱で、力をつけることが重要と思うが如何?

 例えば上に書いたような倒閣の力もそうだが、国民をなるほどと感心させるような政策の提言力、そしてそれを立法化する力などなど。そうすれば、与党が油断したら黙ってても政権交代は起きるし、そんな緊張感の中ではいい加減な倫理観の政治家は淘汰されるに違いない。

 ニュートラルのつもりで書いたけど、もし引っかかる表現などあったらご容赦。

 

またまた白鳳がお騒がせ? 宮城野親方2階級降格で相撲界がきな臭いらしい。

 弟子の北青鳳が後輩力士に日常的に暴力をふるっていたことの監督責任を取らされて、親方の序列としては最下位に落とされたそうだ。

 横綱出身の親方がその位置に置かれることは基本的にはないとのこと。してみれば協会の白鳳に対する存念が伺える措置に思える。

 ネット情報なんかを見ると、白鳳が協会の理事選への出馬を考えていたとか、将来は理事長を狙っているとか、そんな業界内の話がベースにあるらしい。理事は各一門の中で候補が決められ、10人全員無投票で決まるのがしきたりであって、宮城野部屋が所属する伊勢ケ浜一門では既に魁皇浅香山親方になっていた。

 一門の意向に横やりを入れる形になっていた訳で、周りから説得されていたところ、そこへ今回の不始末で上記の厳しい処分。

さて、ここからは私の独り言。

 白鳳については現役横綱の時から、ハッキリ言って「キライ」だ。私は公的な仕事をしている訳でもない一引退オヤジだから好き勝手言うけど、土俵上での一つ一つの所作、時間一杯になった時のモンゴル相撲のような、手を鷹の羽のように広げて大きく振る姿、かち上げ、張り手、土俵際のダメ押し、などなど一つ一つが「横綱に相応しくない」「見苦しい」姿であって、たまにTVを見ても結びの一番はチャンネルを替えることの方が多かった(笑)

 さらに、引退も近くなった頃の「物言いの要求」「観客に万歳三唱主導」の2件はまさに事件と言って過言でないと思ったし、決定的に「もうダメだ」感が最高潮になって、本人を通り越して相撲協会の弱腰振りにまで憎悪の念(笑)が沸いたものだ。

 で、今回久々に白鳳絡みのニュースに接して、「理事になろうとしていた」とか「将来的には理事長も狙っていた」とかの記事を目にして、改めてそれで何をしたかったのかと大いに疑問に思った。しかも現代にあっては遺物と言って良いような村社会的相撲協会をトップとして運営していけると思っていたのかと驚きもした次第。

それで思い出されたのがかつての「貴乃花の乱」。

 貴乃花も同様に一門の意向に逆らって理事選へ立候補をし、結構な泥試合を展開した。その後、最後は弟子の監督責任という形で、仕組まれたのか分からないが、結局は協会を自ら去った。

 理事長を狙っていた点でも今回の白鳳とは類似性があって、嫌でも当時を思い出すのだが、決定的に異なる点が周りの反応だろうか。

 貴乃花の理事選出馬には、同門や他の一門からも賛同者というのか推薦者というのか、自分の協会内での立場を悪くしてでも同調する者も出て、結局のところ理事にはなった。また当時の北の湖やら千代の富士やら強力な先輩親方などが陰に陽に支えてくれたようで、「大相撲改革」を旗印にして一定の足場固めまではできていたように思う。

 大相撲改革と言っても、人によっては改革よりは「復古的な回帰運動」という人もいるようだ。いずれにしろ自らの相撲道を実現したくて立ち上がり、その結果賛同者も得て、しかしながら少しばかり特異な方向性もあって結局は人も離れたにしろ、その信念や思いは明確で説明のつく反抗ではあった。

 一方の白鳳はどうなのか。やりたいことや方向性などはあるのかも知れないが、今のところ聞こえてこないし、賛同者の存在も聞こえてこない。

 高く旗を掲げることなく、ただ反抗や自尊の結果の行動であれば、それは相撲協会でなくとも相当に厳しく処断するだろうし、世間の同情もあり得ない。もし言いたいことがあるのなら、筋を通してきちんと物申すことが必要だろうし、正当な言い分であれば協会のためには必要なことでもある。

 白鳳はどうするのか。協会に見切りをつけるのか、あるいは反省してよき親方となるべく精進して出直しを図るのか。個人的にはまあどちらでも良いのだが、協会にも改革すべき点は山ほどあるのだろうし、人気が下降気味で新弟子も大幅に減っていることを併せて考えれば、まさに存亡の危機と捉えて衆知を結集して欲しいものだ。

 なんだかんだ言って、私は大相撲を好きなんでね。

 

日経平均祭りだあ!34年ぶりってのがすごいけど、アメリカはその間14倍になってるそうだ!?

忘れもしないバブル時代。前回高値の38,915円が実はバブル崩壊の始まりとは当時は誰も知らなかった。それが12月29日、大納会の出来事ってのがまたなんとも劇的ですなあ。

 今回の最高値更新の報道で何度もバブル当時の映像が使われていたけれど、過去のバブル景気はその後の山一證券の廃業につながった事でも印象深く、山一最後の社長野澤氏の「私たちが悪いんで、社員は悪くありませんからっ!」と叫ぶシーンが繰り返し流されている。

 放送はそこでぶっつり切られているが、映像のその後には「そういう次第なので社員の今後の生計が立つように、どうかよろしくお願いする」という趣旨の発言が続くのであって、今見ても胸が痛む。

 調べてみれば山一の自主廃業は1997年のことで、要は事が露見して簿外債務等でニッチもサッチも行かなくなるのにそれだけの年月が掛かったということだろう。

 当の野澤社長にしても、本当に悪いのは先代、先々代等1980年代のトップ達であって、後始末がどうにもならなくなった状態で、簿外の額も知らされずに最後の社長に据えられた彼の涙ながらの訴えであれば、二重に胸が痛む。

 当時のバブル景気は山ほどの不祥事やら犯罪やらとごた混ぜの喧騒状態だった。元々は土地バブルから始まっていると思うが、地上げ屋が跋扈したり兜町の風雲児と呼ばれる輩が一瞬で億単位の金を動かしたり、いかがわしさと暴力性が混じった熱量(本当の暴力も含めて)と、一般人の突き抜けた浮かれ様が渦を巻いているような時代。その時の空気を吸った者でなければ到底理解できない社会状況ではあった。

そんなこんなを思い出すにつけ、さて日経平均が史上最高値の今、こんな熱狂がどこにもないのは何故?

 TVで何とか研究所の人が言っていたのが「当時は企業が国内で稼いでいたから国内に金が回ったのだが、今は多くの企業が外国で稼いでいるので国内に金は回っていない」のだそうだ。なるほどそれなら浮かれるはずもないか。

 他に言われているのが、同じ34年前と比較した時に諸外国ははるかに大きな成長を遂げていて、日本が1倍に戻したと喜んでいるのに、韓国は3倍、ドイツは9倍、アメリカは14倍!に成長しているとのこと。

 これに関してついでに言えば、ドル換算では34年前の高値は当時で270ドルくらい。今はドル円を150円とすると39,000円は260ドルで、ドル建て日経平均はまだ過去の高値すら抜いていない。(実は2021年1月に為替が100円くらいの時に既にわずかに抜いているが)今はドルベースで考えれば41,000円くらいにならないと、本当は喜んではいけない勘定だ。

 もっと言えば、日米比較を考えてみると、当時の日経が270ドルとして、その14倍は3,780ドル。今のドル円が150円であれば、なんと567,000円に相当する。もう笑うしかない。

 いくら何でもそれはご容赦を、というのであれば韓国並みに3倍にまけてあげる?として810ドル、同じく円では121,500円に相当。でもこれくらいだと、本当はそうであっても不思議じゃないはず、何でなれなかったの?なっていて欲しかったと思えるのだけれど、私だけか?

 これではとてもじゃないけれどエンパイアステートビルなんて買えるはずもなく、まあ浮かれるどころの話じゃないことも思い知らされる。

 これがしっかりと我が国の給与水準やら物価の現状として表れているのだろうと、しみじみ感じ入った。我が国が世界からはるかに遅れたことを突き付けられた感じがして、一句。

 「めでたさも中くらいなりおらが春」。違うか?

 

 

 

スノーピークがとっても安い。商品じゃなくて株価だけど。

スノーピークが大減収減益だそうで、MBOでの非上場化も検討中だとか。結局コロナバブルだったのかと思うと、ちょっと切ない。

 一時、TVでも盛んにアウトドア特集をやっていたけれど、近ごろさっぱり見かけない。スノーピークも「アウトドア文化を提案する」みたいなことで、文字通りピークに向かっていたのだけれど、昨年になって業績は相当に落ち込んだようだ。

 要因の一つには、もてはやされて事業拡大をした時に厚みを増した人件費が重荷になっていたということもあるらしいが、基本的には絶対的な売り上げが落ちこんだということのようだ。

 結局アウトドア人気はコロナ禍での「感染を避けて楽しめるレジャー」としての要素に拠るところ大だったのだろうが、あまりの人気沸騰ぶりに、文化とかあるいはグランピングのような高級路線とか、何かと方向性を見誤ったのかも知れない。

 コロナ禍で社会全体の行動様式が変化する様子が随所で見られた時、「もう前には戻らない」とか、これからは「コロナ前の時代とコロナ後の時代として歴史が語られる」なんてそこら中で言いふらす人がいた。

でも、コロナが終息すれば「結局、しかも直ちに元に戻る」というのが正解だったようだ。当時の識者などなど、発言をきちんと総括したほうがいいぞ(笑)。

 余暇を楽しむレジャーとして、山の中で汗臭い体で不慣れなテントで寝るより、大抵の人はハワイのプール付きホテルで憩う方が絶対に好きだ。BBQも楽しいが、ミッキーに会いに行く方が何倍も嬉しい。元通りの行動をしても問題ないですよとなった瞬間、結局は元に戻って、アウトドアライフはそれが本当に好きだった人のレジャーに落ち着いてしまったんだろう。

 レジャー関連ではゴルフも一種のアウトドアであり、同様の事情にあるかも知れない。そもそもなぜゴルフが下火になったかを考えれば、その要因が解消されない限り改めて人気が出ることはあり得ないのだが、その要因の解消は難しい事が多い。

 例えば、プレー代が高い、道具が高い、ゴルフ場が遠い、車がないと行けない、一日つぶれる、マナーが面倒くさい、それなりに練習しないとできない、なまじできれば接待に駆り出されて休日も仕事になる。等々

 日本のゴルフ自体、バブル時代の社用で発展した経緯もあり、それ用にシステム化されているのだから、今どきの若者の感性の対極にあることは間違いなく、であればコロナが終息した(規制が緩んだというべきか?)状態では自然に縮んで行く市場だろう。コロナバブルで一瞬夢を見たようなものか。

一方で「もう元には戻らない」だろうなという分野もありそうだ。

 私が思うには、その筆頭が葬儀関連。今は家族葬が標準になったと言えるのではないかと思う。昔は市井の人でも一家のご主人なんかが亡くなると会葬者も膨大で、さらにはやれ通夜振舞いだ、お斎だと一大イベントだった。それがコロナで一瞬で変わり、おそらく今後も戻らない。

 結婚式の披露宴も近いかもしれない。他には会社の接待の二次会以降。こういったものは皆が「無駄だよな」とか「意味分かんねえし」とか「めんどくせえ」とか思っていた事柄で、それがコロナで強制的に「禁止状態」となったらみんなが「えっ!これってやらなくても良かったんじゃん。」と、真実に気付いた(笑)からだろう。

 こういう業界の方は急激な変化で対応が難しいし、持ち堪えられないところも既に多いと聞く。最初に書いたスノーピークなんかは、同じコロナに翻弄された業態ではあっても、今後の対策の取りようもあるだろし、まだ恵まれている方なのかもしれない。

 何とか頑張ってまた元気を取り戻してほしいところであるが、一つお願いは、もうちょっと商品を安く提供してもらえませんかね。ハワイに行けない人達もキャンプには安心して行けるように。そういう人は(自分も)アウトドア文化とか要らないので。

 

 

 

小澤征爾が死んじゃった。人生でそうそうない喪失感。ともかくも合掌。

友人でも恩人でも、肉親でもない他人が死んで喪失感を感じるのはそんなにないだろう。自分に取ってはチャップリン以来かも。あとは長嶋茂雄の引退の時くらい?

 その二人の出来事はいずれも中高校生の多感な頃だから、小澤の事は約半世紀ぶりの自分史上の出来事になるのか。

 既に15年ほども実質的には引退状態だったのだから、いずれ遠くない時期にその時が来ることは承知していたし、申し訳ないが私の中では亡くなっていたに等しいのだけれど、いざ映像でその訃報が流れると頭の中がスカスカするような、体が半透明になるような感覚に襲われた。

 なぜチャップリンか、なぜ長嶋(は御存命だけど)か、そしてなぜ小澤なのかと考えても明確な理由などある訳もなく、とにかく憧れであり、尊敬であり、ヒーローであった。

 クラシック音楽は学生時代からずっと聞いているが、かといって小澤のレコードやCDを特別に多く持っているわけでもなく、彼の決定版、名盤というのもすぐには思い出せず、また持っている枚数ならオーマンディバーンスタインとかの方がずっと多いし、音楽的にもはっきり言って彼らの方が好きだ。それでも小澤と彼らとは違うのである。

 改めて、小澤の何に惹かれたか本当に分からない。そもそも彼は世代的に自分の父親に近い訳で、旧満州に生まれ、板垣征四郎石原莞爾から名前をもらっているなど、結構特殊な生い立ちであって、音楽家としても、初期に挫折めいた時代も経験しているが、全般的には早くから名を成したと言えるだろうから、どん底からの成功譚とも違う。

 一つだけ、小澤というと必ず思い出す事があって、それは小澤に密着したドキュメンタリーがTV放映されたことがあって(ドキュメンタリー自体はDVDになっていると思う)、その時のヨーヨーマとの会話のこと。

 二人は自宅の庭のようなところで楽し気に食事をしながら会話をしているのだが、小澤が「東洋人が西洋音楽をやっていることを君はどう考えているか」というようなことをヨーヨーマに聞くと、「そんなこと考えたことはない。」と彼はきっぱり答える。小澤は突然顔色が変わり「本当に?」と言いながら「悪いけどカメラ留めてくれないか。とても大事な話なんだ。」と言って、そこでその部分の映像は終わる。(記憶違いがあればご容赦。)

 これに関連するが斎藤記念オーケストラでのインタビューで、「齋藤秀雄先生の教えをきちんと実践することで、世界がそれを認めてくれている。このオーケストラの活動を通じて、その教えを自分達の次の世代も受け継いで行く。」ということを言っている。

 このことは、「東洋人が西洋音楽をやること」が彼の中にはテーマとして、おそらく死ぬまで離れることなく根深く巣くっていたことをしめしているのだろうと、私は思う。

 いきなり話が飛んで恐縮だが、ヨーロッパに行った時にホテルでタキシードとイブニングドレスの土地の若いカップルを見たことがあって、その時「この服は西洋人のための服なんだ」ということをつくづくと、骨の髄まで思い知らされたことがあった。洋服は西洋人のために何百年もかけて発展してきた服であることが身に染みて分かった。

 逆も真なり、西洋人が和服を着て浅草や京都を楽し気に歩いているが、日本人が見れば髪や目の色など分からずとも、一目で日本人ではないと分かる。

 私の世代にして東西文明の抜きがたい相違のようなものを肌感覚として持っているのだから、それと同じ(レベルが違う?)ことを、あの世代の人であれば、しかも音楽に関して人並み優れた感性を持っていれば尚更に、強烈な思いとして、西洋音楽に対して何事かを乗り越えるのか、あるいは独自の道を行くのか、さまざまに思い悩んだに違いない。

 なんてことを本当に彼が思っていたかは定かではないが、なぜ彼をヒーローとして心に住まわせていたのか、私なりの説明にはなるんじゃないかと改めて考えている。

セクシー田中さんのこと。皆さんの気持ちは良く分かるが、もう少し理詰めの説明を誰かしてくれないか。

 原作者の方が亡くなられたのだから、関係者の皆さんが動揺したり悲しんだりするのは大いに理解できるところなのだけれども、ちょっと感情的なコメントが溢れていて、事の本質というか、問題の核というか、どうにも見えなくなっているように思えてならない。

 特に小学館の「第一コミック局 編集者一同」のコメントが出るに至っては、それこそ担当者としての気持ちは痛いほど分かるし伝わるけど、結局何が問題だったのか、混迷を深めていると思う。

 ご丁寧に著作者人格権の解説まで付して、原作者の「権利」「心」が守られることが当然であり、自分たちも今後原作者を守ると宣言している。まさかこれも会社の意向による行動とは思いたくはないが、ちょっと理屈と心情とがない交ぜになって、私には真意が読み取りにくく感じられた。

 一方で翻案権という権利もあるが、その権利がどうなっていたのか、誰が原作者の許可を得て権利を持っていたのか(たぶん小学館だろうと思うけれど、違うのか?)が良く分からないし、翻案が許可されていたからこそドラマ化されたのだろう。

 また、ドラマ化のためには脚本が必要で、ではその翻案された脚本にも、あるいはドラマそのものにも著作権は発生するだろうし、そちらの著作権保護の問題も出てくるのではないだろうか。

 彼らの言うように、今回の問題の本質が著作権であり、法律上の問題であれば、その侵害行為として法律上の解決を目指すべきであろう。

 そうじゃなくて、原作者の心の問題なのであれば、原因の究明の仕方やそれに基づく今後の対策のありようも変わると思う。

 なんとなく感じるレベルではあり、勘違いなら申し訳ないのだが、伝統的に力関係がモノ言う世界だったところに大変ショッキングな出来事が起きて、いたるところで混乱し、自己弁護に走ったり、うろたえたりしているのが現状ではないのかと感じる。

 また、これも伝統的に、作家が「作品というのは世に出した時点で、どう解釈されようと既に自分の手を離れた物だ」的に鷹揚なことを言うのも見聞きしたことがあるし、人によって端から二次元表現と三次元表現は別物と割り切っている場合も多かったのではないか。その点で今回のケースはTV界にとってはかなり異質で対応が難しかったのかも知れない。

 基本的には、理詰めで分析して、理詰めで今後の対策を検討しなければいけない問題だと思うから、それができるのはやはり力のあるTV局と力のある出版社だろう。作者や俳優や、まして社員には荷が重すぎる。