おばさん発言問題で思ったこと。徒然なるままに・・・。

「おばさん」発言を国会で問題視した議員さんが過去に「おじさん」発言をしていたとか。ネットではもう一盛り上がりしているのだそうだ。

 こういうのを一昔前であれば「言葉狩り」と称したのだろうが、今どきはポリティカルコレクトネス(PC)とかで、一つ位が上がったような、重大さが増したような、問題視される程度がちょっと尋常でないと感じている。

 個人的には引退した身分でもあり、世間にあまり気を使わなくてよい立場になっているのだけれど、気取りなのか、PCにはなるべく気を付けていて、詰まるところ時代遅れとか田舎者とかそんなレッテルで見られたくないということなんだろう。

 家庭内や仲間内であれば未だに、ババアとかジジイとか普通に出て来るし、ブッサイクなんて言葉も普通に使っているし、そこに悪意がある場合もあれば、愛情(大袈裟か?)がこめられている場合もあって、言葉はその場、空気、環境に依存するものだと思うから、どんな文脈でどんな含意でというところまで感じ取らないといけないし、逆にそこが伝わらないとトンデモないことになりかねない。

 PCというのも、だからあくまでも「ポリティカル」な場や文脈では使ってはいけないのだが、問題はポリティカルの解釈だろうか。政治的と解すれば結構狭い範囲だが、「政治的、社会的」とする訳文もあって、「社会的」が入ってくると相当難しい問題となってしまう。

 少なくとも、国会議員が公に発言する時はすべからく使うべきではないだろう。が、一般市民が内々の場において使う分には、いわゆる伝統とか慣習とかそのあたりを規範に考えれば良いのかと思いつつ、不愉快に感じる人がいた場合には「社会的」には失格になるのか。

 でも屁理屈を言うが、私の母の妹を日本語では「叔母さん」というのであり、音では「オバサン」である。オジサンも同様であって、これを社会的な場において発することは普通にある。この場合親戚としての関係性の理解が前提にないと、結構大変なことになりかねない

 オネエちゃんというのも結構難しく、例えば私に2人の姪がいたとして姉の方を「お姉ちゃん」と呼称するのはごく普通の事。しかしこの子が大学生くらいの年齢であった場合はなかなか恐ろしいことになって、例えば駅でばったりこの娘に会って「おお、オネエちゃん、おめかししてどこ行くの?」と言った場合、私はとんでもないセクハラジジイと思われても文句が言えない。

今回の事でとても気の毒だと思ったのが、オバサンとか色々言われた上川さんが「なぜ抗議しないか」と責められたこと。

 確かに国会議員であればPCに感度を以て、不適切な言動には抗議しないと、PCを理解しない、あるいは今回の事で言えば女性の権利や尊厳を守る気がない人、となるのかも知れない。

 けれども、仮にだが上川さんがもともと政治家として自分の容姿や年齢や性別に関心が薄くて、そんなことを言われても屁とも思っていなかったとしたら、自然には反応できなかっただろう。

 さらに、昔のことだが石原慎太郎小池百合子のことを「厚化粧オバサン」だったかな、そんな風に、これは完全に意図を以て揶揄した時に「私はもともと痣があって、それを隠すのに化粧が必要なんです。」と、PCどころかある種の身体的欠陥いじりのレベルにまで一気に飛躍させてバッサリと切り捨てたことがあった。これは政治的感性というか喧嘩上手というか、すでに性別なんか超越したレベルである。

 不寛容と言われる現代で、言葉も大変に不寛容なのだけれども、まあ国際的とか政治的とかそういったレベルではPCも重要だろうが、一般市民の生活では気さくな、ちょっと乱暴なくらいの言葉が飛び交う方が、元気の良い社会と思う。

 何にせよ生きづらいと感じる世間というのは勘弁してほしいね。

 

 

アジアカップ負けました。改めてマスコミにモノ言いたい!特にTV、おっかしいんじゃね?

 イランに2対1。なまじ惜敗だから後味が悪いやね。いっそ大敗なら「あらまあ」って済んだかもしれないけど。

にしても、いつも思うが今朝のTVの報道の短さ。事実だけを淡々と伝えて終わりってやり方はどうなんだろう。

 勝ったときにはやれ誰それが素晴らしいだの、このゴールが神だの、キーパーも守護神とかいう神に祭り上げたり、解説者が率先して提灯持ち筆頭となって、どんだけ尺取るんだってくらい放送して、もう終わりかなと思うとそこから次の対戦相手の紹介やら分析やら、対してJAPAN側のメンバー予想から得失点予想まで、飽きもせず各局が放送しまくるのだ。

 対して負けた時には淡々と誰がいつ得点して、相手がいつ得点して、結果負けました。と、できれば放送したくないくらいの極端な態度で、しめやかにかつそそくさと時間を消化する。

 でも、ここまでサッカーが一般化して、通と言われる人々の層も厚くなっている昨今、こんなことで良いのか。というか野球のように100年超の歴史のある国民的スポーツでも、あるいは他のスポーツでも事情は一緒で、負けた時の扱いは、プロの試合に限って言えば、個人的にはとにかく気に食わない。

野村監督の名言「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」なのである。

 だから、まず一点目として、負けた時こそ解説者は頑張れと言いたい。何が原因なのか、何か隠れた要因はあったのか、あるいは相手のどこが優れていたのか、今後どういう風に改善していくべきなのか。それらをここぞとばかり、素人に分かろうと分かるまいと、極めて専門的に、チームの監督コーチと議論できるくらいのレベルで説明してもらいたい。

 今回のゲームで言えば、一点目の失点はまずどこが起点となる失敗で、経過における失敗は何で、最後のキーパーのパフォーマンスの評価はいかなるものなのか、であればどこを押さえていれば避けられたのか、とか、2点目のPKに至るすべての流れについて上記のような分析をするとか、詳細の分析をしてもらいたいものだ。そうすれば自ずと勝ったとき以上に時間は掛かるだろう。

 そして2点目に、これは賛否様々な意見もあろうが、ダメだった選手は名指しで、具体的なプレイも指摘して、取り上げてほしい。何なら「今回のA級戦犯は誰です」、くらい言っても良いのではないか。

 今日本では応援しているチームの選手やプレイにブーイングすることはまずない。しかし昭和のプロ野球では普通に見られたし、もっとひどい時は「〇〇引っ込めー!」くらいの声援?は普通に飛び交っていたし、気の強い選手は「なんじゃコラあ!?。文句あんなら降りてこいや!」くらいの罵声を客に向かって放つほど。

 これが良いかどうかはさて置き、プロである以上客商売であることが根本であるから、客が喜ばないプレイをした時はやはり罵倒されてもしょうがないと私は考えていて、これが選手を猛烈に(昭和?)鍛えるし、球団としてもこの選手では客が呼べないなど、一つの評価基準にもなる。マスコミにあっても負けても選手や監督を罵倒するというニュースネタができて、いわゆる興業として必要な要素だと思う。

 メジャーリーグではボロ負けしている監督がアンパイヤーに抗議する体で「早く俺を退場にしろ!最後までいたら俺は球場から出られなくなるだろうが!」と言ったとか。客がそれほどに熱狂的だということだが、そんなプレッシャーと引き換えに彼らはバカみたいに高額なギャラを得ている。

 お代をいただいて競技をしている人たちと、自身の人格陶冶の一環やら純粋スポーツとして競技をする人たちとでは、適切な報道や求められている報道は異なると思うし、エンターテイメントというものをもう少し突き詰めれば、ヨイショ報道は全く程度が低いと思うのだが如何だろうか。賛同してくれる人は多いと思っているのだが、独りよがりですかね。

 マニア向けには深夜帯とかネットでやってるよ、と言われるかもしれないが、であれば地上波のニュースバラエティ等では勝ったときも淡々と「勝ちました」だけの放送にするのが筋だろう。屁理屈か?

 

 

 

 

女子マラソン日本新記録。改めて、長距離選手は余裕残しの体ではダメなんだろうか、と思うのだ!

前田選手が大阪国際女子マラソンで19年ぶりの日本新記録。いろんな挫折を乗り越えての目標達成に、まずはおめでとうございます。

 陸上競技はただ走るというような、身体能力をダイレクトに競うから、この競技を選ぶ人は結構ストイックな人かなと、勝手に思っている。

 中でもマラソンは、1964年の方の東京オリンピックアベベ(知ってる人も少なくなったでしょうな)が「走る哲学者」と言われたように、頬はげっそり、目は落ちくぼみ、腕は贅肉のかけらもなく、やや下向きに一点を見つめるように走り続ける姿は神々しさすら漂わせていた。 

 その点、野球にしろサッカーにしろ球技系は、身体能力は基本としても、さらに「うまくボールや道具を扱う」技能が結構な比重を占めるから、その練習は達成感やゲーム性が有ったりして、ある意味楽しく取り組める要素もあるだろう。ゴルフなんて最たるもの。

 そうであればこそ、ジャンボ尾崎や頑張れ田淵君のようなスターも生まれる訳だが、彼らとて身体能力は優れているに違いないのだが、やはり「うまくやる」技術が超絶的に優れていればこそのスターではある。

 この「うまくやる」要素がマラソンなら、例えば腕の振り方とか足の振り上げ方とか何だとか、きっとあるのだろうが、それでも100㎏の体重をカバーして余りあるような技術的なアドバンテージはおそらく考えられない。

 筋肉を落とさない限度であれば100グラムでも軽い方が有利だろうし、そうであれば体脂肪率なんかは限度まで少ない方が有利だろう。

でも、日本の選手は本当に極限まで絞り込みすぎていないか、というのが、長年の私の疑問。もう少し余裕残しで強くなる方法ってないのだろうか。

 というのも、諸外国の特に女子マラソン選手は、ママさんランナーで年齢も優に30オーバーなんて強い人が結構いるから、そういう方を見ていると、走ることの喜びみたいなものを体現しているようで、スポーツ本来の姿ってこうなんじゃないかと感じさせる。

 またアフリカ系の選手なんかは家族の生活のために職業として走ってます、みたいな人もいるらしく、生活の半分は家庭人の生活、後の半分は選手としてのトレーニングや競技(賞金獲得)に励むらしい。

 逆に言えば、今現在の人生の全てを賭けて、極限まで追い込んで、絞り込んでいかないと勝てないようであれば、競技をやるのに無理があるということじゃなかろうか、と思っている。

 男子も同様で、実業団選手はおそらく諸外国のどこにも負けないほど練習に明け暮れていると思うけれども、世界は既にレベルが違うところで競っているのが現実だから、何か根本的に違うんじゃないかと思えて仕方がない。

 私のようなど素人に何が分かる訳もないのだが、例えば野球やサッカーでいま世界的に通用する選手が大勢出てきているが、彼らの練習方法は相当に科学的に洗練されて来ているし、であればこそ世界的なレベルに追いついたのだろう。

 マラソン界でも科学的な実証など当然行われているだろう。でも最近青学の原監督が言っておられたのが、青学が強くなって大学駅伝界が変わって良くなったと思うことの一つは「青体(体幹レーニング)をいろんな学校が取り入れたこと」とのこと。逆に言えばそんなことさえ最近まで実行されていなかったということでもある。

 長々とこんなことを書いたのは、要はこれ以上絞れないような体で42Kmも走るのは、長い目で絶対に体に毒だと思うから、もう少し普通の体で世界と戦える方法論を見つけましょうよ、と言いたいから。これでも応援してるんですよ。

 

 

 

 

ミサイル攻撃に備え「地下シェルター」。すっごい時代になって来たあ!

読売新聞のネット版で見かけた記事。東京都が麻布十番駅に整備方針、だそうだ。

 改めて、すっごい時代になったもんだと、ため息しかない。まだ調査費を付ける段階らしいが、本気には違いないんだろう。

 諸外国では地下壕とか、シェルターとかを家を建てる時に備えるのが常識になっている国もあるそうだが、戦争がいつでも起きるという前提の国と、日本のように、前提として戦争は起きないとする国では自ずと意識が違うし、備えも当然に違ってくる。

 そこまで考えていたら、日常的に地震や水害が起こると誰もが信じている日本が、なぜ各家庭や地域においてそのためのハード面の備えが薄いのだろうかと、ふと思った。

 家屋やビルの耐震については何度も建築基準法の改正があって、現在の基準で建てられた家屋やビルは、震度7程度でも直ちに倒壊はしないはずである。防火もしかりで、直ちに有害な煙に巻き込まれたり、焼け落ちたりはしないはず。

 ただ、今回の能登地震で明らかなように、基準に達していない古い建物はひどくあっけなく倒壊するし、あっという間に燃え落ちる。けれども、個人レベルでは”自分のところには来ないかもしれない災害”に向けて結構なお金を積極的に費やすのは難しいから、せめて補助金等で「誘導」するのが精一杯なのだろう。

ただ、あるかどうか分からない事態に向けてシェルターを作ろうとする意志とパワーがあるなら、相当の蓋然性のある地震や水害に対して、行政はもっと力を入れても良いんじゃなかろうか。

 イヤイヤやってますよ、と言われるかもしれないが、現に大惨事が起きているし、たぶんこれからも起きる。意地悪く見れば、行政の不作為とか未必の故意とか、言いたくもなる。

 例えば強制力を以て、耐震基準未達の家屋には、一部屋、4畳半でも良いので、絶対つぶれなくて燃えにくい部屋を設置(部屋の内側に二重に部屋を作るのでも良いだろうし)させて、その費用は全額補助するとかできないものだろうか。

 もう一つ、シェルター的な要素も取り入れるなら、車庫を作る時にコンクリート造にすることを義務付けて、補助金を出すなんて言うのも有効だと思う。

 シェルターと言ってもミサイルや爆弾の直撃にも耐えられるような、そんな大本営みたいな機能はいらないので、まず地震でつぶれない、水害でも水が引けば避難所に使える、燃えない、爆風で倒れない、程度が担保されれば十分だろう。(直撃弾はさすがに「運が悪かったですね」で済ますしかない。)

 耐震と言い、防火防炎と言い、基準を設定する時には「逃げるだけの時間を確保できる」ことが目的で、何も事が過ぎた後も従前と変わらず生活ができることを保証せよとは言わない訳で、まずは逃げて、逆に留まって、命を守れることのみに専念すればそんなに強固で高額なものはいらないのだから、行政も個人も、もっともっと積極的に対策するべきだろう。

 件の麻布十番のシェルターにしても、「爆風から身を守る。その後避難生活ができる」ことが目的のようだから、ここまでは守る、それ以上は諦めるで良いし、それしか現実にはできないのだろうし、そう割り切ればもっともっとやりようはありそうに思える。

 にしても、東京はシェルターなんかを作らなくてもそこら中に地下もあれば高層ビルもあって、当座の逃げ場が結構あるのにさらにシェルターまで考えるのは、やはり底力があるんだな。過疎地の災害とはコンセプトからして様相が違うよね。

 

 

今年も入試のシーズンがやって来た。リスキリングの時代に今の大学ってどうなのよ。

悲喜こもごも、受験生はもちろん、受験生の親御さんも落ち着かない日々でしょう。

 入試の結果次第で人生が決まると思っている人が多いのだから、その悲壮感や如何にと思えばなかなかに切ないものがある。

 人生の「現役」を通り過ぎた者から見れば、学校の名前はせいぜいスタート時点でのアドバンテージくらいで、さて、終盤までとなるとそこまでの力もないのだが、イヤイヤあんたの人生であんたの学校はその程度だった、と言われればその通りでもあり、頑張るに越したことはない。

 一方で頭の隅に置いておかなければいけないこともある。昨今のIT人材の払底に対応するべく、文科省はその系統の学部学科の定員増を例外的に奨励している。つまり学問領域といえど時代の流れの中で、重要度は簡単に変化する。

 例えば昔の電気、電子、機械等の分野は名称共々教育内容を大きく変えてきているし、原子力はより重要になったとも言えるしもうオワコンとも言える。人文系統に至っては不要論が盛んだ。

結局一生勉強なんだよね、というのが今風にいうと「リスキリング」だろう。掛け声や心がけの問題ではなく、リアルに勉強し続けないとね、ということ。

 目まぐるしく変化する世の中で、常に一線で活躍しようと思えば必要な知識、技能も目まぐるしく変わる。22歳で身につけた、あるいは博士まで修めようとも、分野によっては賞味期限10年が良いところ。

 そんな中、今の大学教育システムは、ひいき目に見ても昭和の時代、高度成長期にマッチする程度の設計ではないだろうか。

 入ったもの勝ち、履修内容や質に関する保証など、実際にどれほどの責任感を以て我がこととされているか。さらにアフターケアに責任を持とうとしているか。などなど、以前から言われている課題への対応も一夕一朝にはできない話で、さらにリスキリングへの対応までははなかなか難しいだろう。

 個人的な感想なのだが、上記の課題に対応しやすいのがアメリカのコミュニティカレッジのシステムではないかと思っている。似たような形態で我が国には専門学校もあるが、失礼ながら教育の質や施設設備の充実度などの点で、大学短大に見劣りする学校も多い。

 そこで、まあ一つの暴論と思って見ていただきたいが、今の専門学校の中で希望するところはその質や設備等の審査を経て「コミュニティカレッジ」(「Cカレッジ」とでも呼ぼうか)として大学の種別に組み込んでは如何か。その時、各地にある職業訓練大学校や中小企業大学校のような、省庁立の(下手な大学より立派な)学校も公立の短期大学として、同じ種類のCカレッジとして再編する方が良い。

 4,5年前に「専門職大学」の制度ができた。ただ、基本的には既存大学と同等の基準で作られたようで、あまり数も増えないし、既存の大学と何が違うのかよく分からない。

 対してここで言う専門学校等からの転換は、明確に「リスキリングへの対応、トレンドへの素早い対応を行い、上質な教育、トレーニングを実施する(できる)短期大学の一種」として、認可すれば良いのではないか。

 教育内容のある程度の標準化を行えば、アメリカ同様、そこでの取得単位は既存大学の単位としても認められることとし、編入学もし易い仕組みができるだろう。そうなればCカレッジと大学間での往来や社会とCカレッジ間での往来を通して、生涯にわたって”今”必要な知識技能を学びやすい社会基盤になるのではないか。

 既存の大学は自分たちの既得権益を侵されると思うかもしれないが、あにはからんや少子化の折どんどん大学がつぶれていく時代にあって、上記のような「生涯学び続ける社会」が一般化すれば、学生の母集団が一気に何十倍にもなるのだから、国を挙げて取り組んだ方が良いですよ、と、いらん一言で終わります。

 

 

派閥、派閥、派閥。浜の真砂は尽きるとも世に派閥の種は尽きまじ

総理が自らの派閥を解散して仕掛けたらあらまあ皆さん追随しちゃった。

 とは言え、解散なんかするものかと頑張っている方々もおられるようだが、まあどっちでも良いので、今回の裏金問題と派閥があることと、イコールの関係でもないと思えるし、たぶん政治と金の根本の問題は何の解決にも至らないだろう。

 そもそも派閥って、政治家さんも言ってるが、人が3人集まれば「閥」はできるもので、学閥、閨閥門閥、財閥、軍閥藩閥、言葉としては生煮えだが出身地閥、さらには党派、別派、分派なども閥の一つか、とにかく多くの言葉がある事でも分かるが、良いとか悪いとかを抜きにして、自然に、あるいは意図をもって世間にはたくさんある。

 多くの人が身近に見聞きするのが学閥だろう。伝統があって優秀と言われる学校になればなるほど「先輩!」とか言って、出身学校が同じというだけで、これまで学内はもちろん日本中どこであっても、一度たりとも会ったことの無いジジイに満面の笑顔ですり寄っていく奴のなんと多いことか。

 なぜそんなことをするかと言えば、何某かの利益を期待するからだが、学閥程度では同じ学校の卒業だからと言って思想信条が同じ訳もないし、同志として行動する積極的な動機もないのに、世代を超えた人々がが寄り集まることとなる。

 利益にはもちろん金銭が絡む場合もあろう。が、多くは直接的には人脈などという漠然とした利益に対する漠然とした期待程度だと思う。

 それでも人は集うし群れるのだから、政治家ともなれば、末は博士か大臣か、目指すところに立身出世がなければ逆に選挙民への裏切りになり兼ねないのであって、大物にすり寄ってでも政権の一翼を担って、国政を動かす立場になりたいと切望するだろう。

そんな人々が370人だか380人だかも集まって、これからどう捌くつもりだろう

 これって自分の会社とか学校とか、あるいは町内会でも良いが、それらに例をとって考えると恐ろしい事態だなと思いませんか。

 会社であれば事業部とか部とか支社とかそういった組織が一切なくて、しかも本社の権威を笠に着た人事部や経理部なんかも無い(事務処理機能はもちろんあるでしょうが)、そんな400人を社長と役員だけで御して行けるか。

 学校であれば学年もクラスも無くて、当然担任も学年主任もいないし、級長さえもいない。大学であれば学部も学科も学年も無い。当然学部長も学科長も、教授も準教授も教授会といった組織もない。ただただ全員が等しくフラットで所属する単位がない学校って考えられないだろう。

 町内会でも大きな町内は班分けにして、班長を1年ごとの持ち回りとかでやってもらわないととても運営できないと思う。

 にも拘らず事は政治家の世界の話で、集まっている人々が声はでかい、とびっきり頭の良い人もいる、野心家もいれば陰謀好きもいる、うなるほど金を持ってる人や、相当の組織の権力者だった人までいて、おまけに全員が選挙で選ばれた、一定数の国民の「代表」なのだ。

 そんなのが我こそはと意見を言い募り、てんで勝手に名乗りを上げて猟官運動を起こしたら、と考えると眩暈がする。

 のだけれど、党の総裁たる首相が解散すると言ったのだから、まあ何とかする算段はあるのだろうけれど、普通に考えると党運営なんて絶望的に思えてならないし、個人的にはその方向へ進んでいく可能性も本当にありそうに思えている。

 そうなったらそうなったで、それ自体にどうこうはないのだけれど、それで景気がおかしくなったり、国防がゆるゆるになったり、株価がダダ下がりになったり、そういうことだけは勘弁してほしいのだが、何とかうまく着地できると良いですね、と言うのが精いっぱいかな。

 

 

 

本当にトランプが再登場するの? 温暖化より地球に影響あるんじゃないか?

トランプがアイオワの党員集会を制したそうな。

 前回トランプ大統領が実現した時、どこの誰とは言えないが、財界でも立場のある方が「彼は4年間持たないんじゃないかと思うが」と、内々の席ではあるが言っておられた。

 あにはからんや4年間はちゃんと勤め上げた。が、その間びっくりするような出来事のオンパレードで、あの国の大統領であれば当然やるはずの行為はなされず、まさかしないよねと世界中が信じる行動はきちんと行われたとしか思えないのだが、まあそれも実行力と言えば実行力だし、信念と言えば信念。

 選挙民たる米国人のかなりの人々は、その行動に大いに納得し、さすが我が大将であると満足しきりだったのだから、同じ国に住むリベラル人だけがアメリカ人じゃないことを世界に知らしめたのは、一つの功績と言えば功績。

 世界が思っていた常識がま”ぼろしい~”に過ぎないことがハッキリした、という方が正しいのかも知れない。世界は広い。いろんな人がいるってことを改めて教えてくれたその影響力はある種破壊的でどんなマスコミも叶わない。

 今回のアイオワの集会でも、新聞等で知る限り「エルサレムイスラエルの首都としたことは大変立派だった」とか「トランプ時代はロシア、中国、北朝鮮をきちんと管理できていた」などと評価する声が伝えられている。

 ヒトは立場や信条一つで、同じものを見ても180度違う評価を下すものだということがしっかり証明されて、この事だけでも、世界中で何が起こっても不思議ではないし、何を言うのも自由だし、自分が信じられない、受け入れられないとしても現実はそこに「ある」のだという哲学的真理を教えてくれる。

 結果、ポリティカルコレクトなんて全く関係ない、国の外交ですら罵り合いのような言葉が飛び交う、言葉を換えればぶっ殺してやる的な発言だって許される、という世界がそこに「ある」ことが目に見える時代を彼は作った。

けれども、もう一度そんなものを見せられたいかと言えば、私は遠慮したいな。

 古いとは思うけれど、民主主義は「選良」によって運営されるべきで、決して「衆愚」に陥ってはいけない、というのが基本的に思うところではありますね。

 身近なところでも「市民、住民の声も聞かずに・・・」という論調が溢れているけれど、民主主義も直接と間接と、お互いメリットもデメリットもあるのに、良いとこどりで自分の関心がある事だけ「俺にも言わせろ。言わせないとは横暴だ。」的な動きにも、ある意味で衆愚に近いと思える時がある。

 いわゆるポピュリストが世界にはびこっているけれど、トランプが大統領となったのも時代の一幕といえるだろうが、逆にトランプの成功?が世界のポピュリズムを勢いづかせたという面もあると思うし、まあ専門家でも何でもないから感想でしかないけれど、トランプ再登場となったらその流れが決定的になりそうで、嫌とか以上に怖いよね。

 世界は民主国家よりも専制国家の方が数は多いのだそうだし、今でも民主国家が自国第一主義に傾く隙に専制国家群が勢いを増す状況にあるのだから、今後のアメリカの態度一つで決定的な、いわゆるクリティカルポイントを迎えるような気がしてならない。

 そうなったら、MAGAの掛け声がとても皮肉なことになってしまうよね。お願いだから、MAGAを追求したら国が没落したなんてことのないように、アメリカの人々には何とか頑張ってもらいたいもんだな。日本にできることは結構限られていると思うんでね。