東京マラソン終わったけど、男子の日本人1位は全体の9位。まあこんな感じなんだな。

今回は10位までの9人をアフリカ系の選手が占めた。日本人選手とは1部リーグと2部リーグとか、F1とF2とか、クラス分けしないとどうにもならないのでは?と思ってしまう。

 このレースに人生を賭けて臨んだ選手もいるだろうし、パリオリンピック選考の最後のチャンスでもあり、望みの絶たれた選手達には同情を禁じ得ないし、頑張ったねと労いたい気持ちはある。

 ただ、純粋に競争として見ればもう勝負にならないレベルで、この先トレーニング方法とか何かでこの差を縮めることができるとも思えない。(女子もゴールを4人まで見たけど、4位までの3人がやはりアフリカ系の選手だ。)

 おそらくはパリオリンピックでも似たような展開になるのだろうが、日本人だけが遅い訳でもなく、東京オリンピックでは大迫選手が6位になっているのだから、その意味では日本人はそれでも比較上位と言えるのかもしれない。

 とは言え、単に順位の問題であればまだ可能性もあろうかと思えるが、これがタイム差で4分とかになると、距離なら1500メートルに近いから、ちょっと絶望的な差に思える。

 スタート前の放送では、男子のペースメーカーの設定は2通りあって、片方は2時間を切れるくらい、もう片方は日本人のオリンピック選考に向けた2時間5分50秒を目安にしているということで、端から日本人選手は第2集団前提でレースが設計されている。

 しかも今回のレースでは、早い方のペースメーカーは選手自らのペースに対応しきれず、本来30キロまでが任務のはずなのに、20キロあたりから脱落し27キロまでに3人とも途中離脱するほどのスピードでレースが進んだ。これではやっている競技が違うようなもの。

こうなるともう骨格や筋組成など、身体能力が根本から違っていて、少なくとも「走る」能力においては限界値が違っている前提で取り組むしかない。

 その点、日本には国技?として相撲があるし、柔道だってもともとは体格差などは考慮せず、階級分けなしに競技する伝統があるのだから、「柔よく剛を制す」とか「小よく大を制す」の精神で、「らしさ」を発揮する道を行くべきだろう。

 競技だと思うから勝った負けたに拘るのであって(笑)、ここはひとつ大和魂を大切に「勝って奢らず負けても悔いず」の精神で「道」、つまりマラソン競技から「マラソン道」に昇華させ、自らの人格陶冶や人としての道の追求のために走るのだと、孤高の精神を貫くのが良いのではないか。

 マラソンの名選手はアベベといい、瀬古といい、近年ではキプチョゲといい、みんな走っている姿は求道者のそれであり、人生の深奥を見つめているかの風格が感じられるものである。しかもそれで勝っていたのである。

 日本の女子選手も、今も名を残す高橋尚子野口みずきは、走る、走れる喜びを体中から発しながらゴールしていたし、野口なんかゴール直後に「走れることが幸せです」と泣いたこともあった。また「走った距離は裏切らない」とか「楽しい人生と楽な人生は違う」とか名言を残していて、まさに走ることが人生修行であった感がある。それで、やはり勝っていたのだ。

 映画や小説でも、フォレスト・ガンプはただ走りたいから3年の余も走り続け、「遥かなるセントラルパーク」では登場人物それぞれの人生を、3か月に渡って延々と走るという行為に仮託した大感動作品である。長距離を走ることは、単に「走る事」ではないのだ。

 日本人はこれで行こうじゃないですか。道を究めるために走りましょう。見ている人もこれからは「彼は今何を思って走っているんだろうか」とか「むむ、今、無の境地にいるな。できる!」とかそんなことを考えながら見れば、ラップが下がったの、何秒遅れたのと気を揉みながら見るより、同じ2時間が何倍も価値あるものとなるでしょう。

 全くのおふざけで書いていると思われると心外なので、ある程度は真実もあるんじゃないかと暖かくお目通しいただくとありがたい。