松本人志報道で思い出す松下幸之助の言葉。偉くなるって難しい!(偉くなくてよかった。)

松本人志報道真っ盛り。水に落ちた犬は打ての言葉を思わせる昨今。

 ジャニーズもしかり、これでもう終わりだろうと思えば容赦なく叩くのが世の常とは言え、なかなかの勢いで次から次と、特にネットでは批判記事が出てくる。それをいちいち読んでいる自分も同類に違いないが。

 もともと肉食系なのは知れたことだ、という論調と並んで、その天皇ぶりもしきりに書かれている。曰く、番組ゲストは本人の意向を聞かないと決まらない、局から帰る時は幹部社員まで勢ぞろいでお見送り、吉本は社長以下直言できる人間は誰もいない、等々。

 相当な偉さぶりだったようで、こうなると水に落ちたが最後、誰も助けてはくれませんね。まあ自業自得と言えばそれまでだけれども、個人的に興味があるのはそこに至る過程。

 最近で言えばジャニー北川氏とか、あるいは宝塚の会長?とかも含めて、巷間伝えられている「不可侵」的人物について、何が、あるいは誰がそうしてしまったのか。本人の性質、性向にのみ還元できるのか。そのあたり、芸能関係のルポライターなど、事情通にはぜひとも論考願いたいと思っている。

「一番困ったことは”全能感”にとらわれてしまうこと」

 こういう人物が出てくるたびに思い出すのが上記の言葉。松下幸之助が言ったということを人から聞いたのだが、「会社が大きくなるにつれ自分が何でもできるという全能感にとらわれて、それに苦労した。」とのこと。

 数々の名言から推して松下の言葉と思わせるのだが、自分の周辺にも不可侵ぶった方はよく見かける話で、偉くなるとこの全能感が襲ってくることは間違いないようだ。

 ただそこで、内省できる人は「ああ、これはまずいぞ」と思うのだろうし、自分は常に正しいと思いがちな人は今自分が危険なところにいるぞとは絶対に気づかないだろう。

 一方で、偉くなっても謙虚だったり、普通だったり、周りに気を遣う方も芸能人も大勢いるだろう。

 三代目桂米朝は弟子入りするときに師匠の四代目米團治から「芸人の末路は哀れやでえ、それでもええんか」と言われたそうで、人間国宝になったほどの人が「芸人の末路哀れとずっと思っている」とTV番組で話していた事がある。

 また、誰か忘れたが、名優と言われるに真に相応しい名優が「引退とか考えることはあるか」と聞かれて「いずれ誰からも声がかからなくなるのだから。」と言ったそうで、俳優という、ある種の潜在的失業者としての自己をしっかりと見つめていた方なのだろう。

 つい先日亡くなった八代亜紀も、追善の時期だし多少割り引く必要はあろうが、優しくしてもらったとか気さくな方だったとか、演歌の女王でありながら最後まで熊本の歌好きな少女の心を持っていたのかなと思わせるコメントにあふれている。

 こういった方々を見ると、僅かな例で言うのもはばかられるが、例えば師匠に当たる人がいて躾られたとか、下積み生活の辛酸を舐めたとか、あの人のおかげで今の自分があるとか、何かしら「畏れる」対象を心に住まわせているように思う。

天網恢恢疎にして漏らさず

 「お天道様は見ている!」ということ。同様に「天知る地知る人の知る」これは隠密同心杉良太郎。いずれにしろ悪事はバレル、必ず誰かは見ている、知っている、という感覚。目に見えないし、いるかいないかは分からないけれど、例えば「お天道様」って何者か知らないが「人知の及ばないもの」「おっかないもの」の存在をどこかで信じている感覚が、現代は希薄になりすぎたのじゃなかろうか。

 世界的にはこれを「神」というのだろうが、信仰心の薄い人間であれば、何者か「畏れる者」の存在を心の内に持っておかないと、まともには生きられないのだろう。