スーパー銭湯と一匹の猫(創作童話ではありません)

2年ぶりにスーパー銭湯へ行ってきた。

 2年ぶりか3年ぶりか定かではないが、1年ぶりではないし5年ぶりでもない、という程度の「ぶり」で、前回は650円だったと思うが、今回は平日で750円。土日だと800円だそうで、まあ昨今の諸物価を考えれば想定の範囲内

 以前はスーパー銭湯に限らず、日帰り入浴で家内とよく温泉に行って、昼飯食べて帰ってきたり、1泊、2泊くらいの温泉旅行も年に2、3回は行っていた。

 それが近場のスーパー銭湯も含めて、間違いなくここ一年はどこにも行っていなかったのだけれど、心身に様々な滓が溜まった感に堪えられず、一応家内も誘ったのだが、結果的には一人で、久々に大きな風呂やらサウナやらで命のお洗濯をして、今は少し抜けた感に浸っているところ。

 なぜここまで出不精になったのか。ここで、一匹の猫の登場となる。

 およそ一年前、縁あって我が家で保護猫を飼うことになった。我が家と言っても初老の夫婦2人きりであってみれば、家内の飼っている猫が我が家にいる、という方が写実的には正しい。

 飼い始めの頃、家内の友人が「動物病院にデブ猫を連れて来るのは例外なくババアだ」と、これ以上ない的確な表現で家内に甘やかしを忠告してくれたそうだが、忠告というのは現に在りがちだから存在する訳で、あっという間に、やれ寒そうだからヒーターが要るだの、このご飯だとあまり食べないから別のを買ってきただの、甘やかしのオンパレード状態になり、一日2食のはずが3食おやつ付になるのにひと月もかからなかった。

 そうなると、ちょっと買い物に行くにも何はともあれ猫のお昼ご飯までには帰宅することが前提になる。そうなって初めて一日2食で飼うことの意味が身に染みるのだが、3食を習慣づけてしまったのは誰のせいでもなく、結果自分たちの行動を猫ファーストに振り切る羽目に陥った。

 自分たちへの影響を極力減らすためにできることは、せいぜい二人別行動をとることで、相方が承知さえすればお互いに数泊の一人旅も理屈上は可能だ。家内は自分が飼っている自覚もあろうし、私が言い出せばはっきり否とは言いづらいだろうが、私にしても実際にそうしたならば、長年の経験に照らせば、決して明るい未来は訪れないことくらいは分かるのだ。

 そんな空気感の中でこの一年が過ぎ、そしてついに「スーパー銭湯へ行こうと思うが、一緒に行くか?」という一言が発せられた訳である。

 何をそんな大袈裟なと思われる向きもあろうが、ここまでお目通しいただけた諸賢にあってはすでにお気づきの方もおられよう。そう、この一言には多くの含意があって、伊達や酔狂で発せられたのではない。

 とはいえ多くの含意のいちいちに言及するのも冗長なので、端的に一言にまとめれば「もう、俺はやりたいようにやるぞ」ということに尽きる。

 が、一足飛びにこの域まで跳躍すると大怪我が待っているに違いないので、「以前のペースをほんの少し取り戻したいと思うが、あなたの苦労もよく分かるので自分にできることはやるし、けしてあなたを一人で置き去りにするわけではないが、少しずつ少しずつ、生活のありようを変えて行きたいなあ。」という趣旨を、慎重にも慎重を期して、真意が伝わらない可能性も覚悟しながら匂わせた次第。

 その効果のほどは今はまだ分からない。後々、一人で鄙びた温泉につかりながら「ああ、今日があるのはあの時のスーパー銭湯発言がターニングポイントであったなあ。」と思い出される日が来ることを信じたい。

 と言っている脇で、ホットカーペットで日がな寝る猫一匹。